自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆生きるセンス

2010年11月20日 | ⇒トピック往来
 今夜、「生きるセンス」をテーマにした講演会が能登半島の珠洲市の農家民宿であった。金沢大学医薬保健学域・教授の天野良平氏が主宰する催しで、声がかかり立ち寄った。講演はリレートーク方式で、3人が15分ほどずつスピーチをする。聞き書き作家の小田豊二氏、珠洲市長の泉谷満寿裕氏、保健師の榊原千秋氏と話がバトンタッチされていく。

 小田さんは、登山家の長谷川恒夫が「生きぬことが冒険」と語ったその生涯を紹介しながら話した。彼の登山人生は15歳のときにはじめて丹沢に登り、17歳で岩登りを知ることから始まる。26歳のとき、エベレスト登山隊に参加した。48人という大所帯での登山で、サミッター(登頂者)の生還を助けたが、自身の登頂はならならずに「組織登山」から、単独登山を志す。31歳で、アルプス三大北壁冬期単独登頂を果たし有名となる。その後も、アコンカグア南壁フランスルート冬期単独初登頂。その後、ダウラギリ、エベレストなどを目指したが敗退の連続で、ヒマラヤではサミッターにはなれなかった。1991年に未踏峰ウルタルIIに挑戦し、雪崩に巻き込まれ亡くなる。43歳だった。「挑戦し続ける人生こそ」と小田さんは言う。最後に、「好きこそものの上手なれ」という有名な言葉の説明をした。これには前文があり、「器用さ、稽古と好きのうち、好きこそものの上手なれ」だ。つまり、最初は下手でも、「好き」という人が最終的に名人になる。「好きなことに挑戦し続けよう、これが生きるセンス」と結んだ。

 泉谷さんが、36歳にして初めての市長選に臨んだ2000年6月。現職に挑戦し、敗退した。「そのとき、人格のすべてが否定されたように思った」と。泉谷さんは話の中では触れなかったが、当時、最大の争点だった原発建設計画の「一時凍結」を訴え、反原発グループと政策協定を結んで戦った。が、推進派の現職9300票、泉谷6690票で敗れた。その後、2003年12月に電力側が「原発の凍結」を市に申し入れ、原発計画に終止符が打たれた。初めての選挙で敗退者となり、落ち込んでいた泉谷さんに励ましの声をかけてくれる人々もいて、人の気持ちのありがたさを知った。泉谷さんは、明治の政治家・陸奥宗光の言葉を座右の銘にしているという。「政治はアートなり。サイエンスにあらず」。費用対効果など統計や数字を持ち出して語る政治ではなく、人々の心の動きが読める政治をしたいと語った。

 榊原さんは、ふっくらとした面持ちで、演歌の天童よしみ似が第一印象だった。33歳のときに凍結路面で交通事故に遭い、九死に一生を得る。「右手の中指からチカラがスッと抜けました。死はここから始まると思いました」。難病の人たちの願いを地域の人たちとかなえる「命に優しい街づくり」「ホスピタリティな街」を小松市で実践している。ガン患者とスープをつくり、飲む集いなども主催している。話の最後に締めくくった言葉。「喜べば、喜び事が喜んで、喜び連れて、喜びに来る」。自ら死線をさまよった経験を持ち、生き抜きたいと願う人々に手を差し伸べる。人生の本当の喜びとは一体何かを考えさせてくれる言葉だった。

⇒20日(土)夜・金沢の天気  はれ

 
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