他人に左右されるようでは、いけないのだが、社会のなかで、個人は概ね,他人に影響されていて、個人は、自主的に、そんな風に動いている。
人事権を握った政権は、官僚組織ばかりか、検察、裁判所、マスコミにまでその影響を広げている。
安倍政権のように長期化すると、その傾向は、ますます顕著となり、少々の不具合があっても、政権の意向どおりに動くと、個人は心を決め、周辺の動きにそって、流れていこうとする傾向が強くなる。
それぞれの人が、自分と家族とのことを考えた場合、政権の意向に反するような行動は自ら自制し、政権が望むであろう方向を選択するのである。あたかも、自分の意見がそうであるようにして。
安部首相の意向を忖度するようになる傾向が普通になると、安倍首相は、論理はどうでもよくて、野党の言うことなどまともにとりあげようともしない。
論点を、すりかえたり、外したり、国会議論をみても、論理的でなくてもいいから、余裕があるような態度を貫き、議論らしいカッコウをすることで乗り切ろうとする。論議にならないようにするのが、彼の作戦である。
野党は、国会論議でどのように攻勢をかけるか、であるが、本当に弱者の側に向いているかどうかは、実は定かではない。姿勢がもう一つピリッとしないからである。野党は、ピシッと弱者の側に立つべきだと思うのだが。
政権側は、支配層の意向によりそい、富裕層を優遇し続ける。どうとでも、言い抜け、国会の議論を切り抜ける。
そして基本方向は、弱者を食いものとし、どうしょうもない、馬鹿どもとして扱う。本音のところ、弱者を救うのだという姿勢は、毛頭ない。
弱者の側は、自分が悪いと思い込み、落ち込み、静かに自身の小さな幸せを見つけて、自分をごまかし、収奪を許し、この世を去っていく。健康を害せば、離婚し家族バラバラとなり、孤独に生を終えるしかない。
弱者が寄り添い、助け合って、楽しく生涯を終えることができないものであろうか。それには、為政者の政策が必要である。意図的な配慮があればそれは可能であると思う。そんな社会を構築できるかどうかは、為政者がそうするかどうかを考えているかどうかで決まる。
考えもしないことは、実現なんてするわけもない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます