長年、放送大学を続けていて、ついに全コースの終了を迎え、名誉学生となったらしい。放送大学から、銘板に名前をのせていいか、との問い合わせがあり、それは、うれしいことだと回答した。
おもえば、7コースを卒業したのだから、しつこいものだと我ながら思う。放送大学の学費は安いと思うのだが累計すると、それは結構な金額となる。しかし、長年かけてのことだから、それほどの負担感はなかった。
振り返ってみれば、長い年月をかけて、全コースをクリアしたといっても、その成果はどれほど、身についているのだろうか。
その時その時は、一応テストはクリアしているのは確かだけれど、残念ながら、学習の成果、記憶は直ぐに忘却の彼方へと消え去り、跡形もなく、なにごともなかったような気さえする。
それでも、自身が気付かぬところで、何ほどかの痕跡があるのだとすれば、それが唯一の救いであるのだけれど。
ながい年月のなかで、いろんな場面があった。 ある科目、到底、受かるはずもない状態で、テキストはとても歯がたたず、放送を聞いても、どうしようもなく、単位認定テストを受けても、意味がないと思っていた科目だったが、いざテストを受験してみれば、問題が素晴らしく、まさに、テストの最中に勉強ができて、問題に導かれて、思いもかけぬ、いい出来の答案が書けたことがあった。
結果は、最高水準での合格であった。しかし、その喜びもつかの間で、実はその成果が身についていないのである。中身が濃い科目であっただけに、テストはなんとかクリアしたものの、身についていないという自覚は、いささか寂しいものがある。
全般に、全科目について、その傾向があるような気がする。単位は確かにとったのだけれども、身についていないというのは、どう考えたらいいのだろうか。
それで、すべてゼロなのかといえば、そうとも言えない面もあって、どこかに、痕跡が残っている風でもある。それは、なんとなくであり、どこともいえるものでもなく、したがって、自慢できるものではないのは当然なのだが、なんとなくあるような気がするのである。
たよりないことで、もちろん誰にも自慢などできるものではないが、その感覚こそが、放送大学名誉学生の意味なのかもしれない。単位を取ってきたのは確かなのだから。
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