戦争をしないことを宣言する。そこが、まず出発である。憲法9条は、それを宣言している。戦力も持たないとしている。そこには、自衛という文言もない。したがって、相手が遮二無二攻めてきた場合はどうするのかといえば、打つ手がないのである。
日本はそういう宣言をしているのである。これほど、戦争をしないことを鮮明にしている国はないのではないか。尖閣といわず、どこだって、自国の領土を守る術はないのである。まさに、各国の信義に頼っているのである。
戦争で、すべてを失い、アメリカの属国になり、お妾となり、金儲けだけはしてきた。だが、肝腎の誇りを失っている。だいたい、こういう理解でいいのではないか。憲法を変えたいという方々の考え方は。
それで、これではいかんと、ではどうするのか、結局は、自分で自分のことを守れるようにしなければならんと、で、自分の国だけでは、到底自分の国は守れない、となれば、集団で、信頼できる他国と協力して自国の権利を守ろうとなる。
そこで、集団的自衛権が登場する。アメリカの言うとおり、どこでも行こうか、ということになる。これは、まことに危うい道である。彼らが、何をしてきたのか、先住民の文化、富、そして命をうばい、彼らは権益を確保してきた歴史を持つ相手である。
そのために、彼等は、自分に都合のいいルールを押し付けてくる。こんな相手を付き合わなくてはならない。油断できない相手である。武器をもたず、にいけば、簡単に裏切ってくる可能性がある。武器をもつにしても、相手を凌駕してしまうようなものは持てない。
いつでも、もてる状態にして、ある日突然、とんでもない武器をもったとしたら、彼らはどうするだろうか。どの国も黙ってしまうような、画期的な武器を手にしたとしたら、どうなるのだろうか。
人間が作れたものなら、いずれ、どの国も持つことが可能だろう。かくて、人類社会は、滅びるよりほかない運命となる。その方向を根本的に変えるためには、最初にもどって、私は戦争しない、やるならやれ、というほかないのかもしれない。