暮れに「お父やんとオジさん」を読みました。
伊集院静が自身の父親を主人公として書いたこの小説は、姜尚中の「母-オモニ-」とともに在日の著者が肉親のことを書いた小説として昨年注目されました。
この本の小説としての読み応え、たとえば侠気(おとこぎ)あふれる主人公宗次郎(=お父やん)の魅力と、彼が朝鮮戦争のさなか義弟(=オジさん)を救うため朝鮮半島に渡って活躍する後半部分のドキドキハラハラ感、そして著者自身も語っている家族愛の深さ等々については、すでに多くのブログで感想が書かれているので、私ヌルボとしては、「オススメの本ですよ!」とだけ言うにとどめておきます。
・・・で、このブログでは、この本の中から韓国・朝鮮にかかわる事柄をいくつか拾ってみました。
伊集院静は1950年2月の生まれ。朝鮮戦争勃発のわずか4ヵ月前ですから、いくら自分に直接関わる内容とはいえ、また作家としての想像力を働かせても、この小説のメインの部分の戦争末期~朝鮮戦争当時について書くのは大変だったと思います。
事実、作中の彼自身(「ボク」=直治)も、「父のもとで働いた人に話を聞いたとき、最初は信じられなかった。なぜ、仕事も家庭も順調な人が、妻のために命の危険を冒したのかと。韓国にも取材へ行きました。雑木林や松林の続く山並みは中国山地と似ている。でも、簡単に歩ける場所ではなかった」と記しています。
したがって、資料として読む場合、事実とフィクションの境を念頭に置く必要はあります。とくに、朝鮮半島内での叔父(吾郎)や父の単独行動の部分は、どんなに綿密・周到な取材をしたにしても、大部分は作家としての想像力に追っているところが大きいと思われます。
まず、小説の舞台、伊集院静の生地の山口県防府(三田尻)について。
朝鮮半島に近く、戦前から関釜連絡船が運航していることもあって、山口県は以前から在日朝鮮・韓国人が多い所です。現在も人口10万あたりの在日韓国朝鮮人の占める比率は大阪・京都・兵庫・東京・愛知に次いで全国6位です。
防府市も、当時(戦時中)港湾や塩田の労働者として多くの朝鮮人が働いていたことがわかります。
※三田尻塩田は1959年まで存続しました。
朝鮮人労働者たちがどのような経緯で日本にやってきたか、小説の中から拾ってみます。
「ボク(直治)」の「お父やん」高山宗次郎は、朝鮮半島南部の村(現慶尚南道泗川(サチョン)市昆陽面)の貧しい農家の三男でした。子供の頃から近所の小作農の手伝いに出されたりしていました。食べていくのがやっとの暮らしの中で、13歳の時に親から片道切符を持たされ、先に日本に来ていた次兄を頼って日本に渡ります。訪ねていった門司の工場にすでに兄はいませんでしたが、宗次郎は懸命に働き続けます。監禁同様の状態で働かされた炭鉱から命からがら脱出したこともあり、そして15歳になった時人の紹介で三田尻に来て沖仲士をするようになります。
宗次郎は、まだ女学生だった要子を見染めて積極的に父の金古昌浩に働きかけ、条件とされた運転免許を得て廻船問屋の定職に就き、結婚を成就させます。この要子が「ボク」の「お母やん」で、4姉妹と2兄弟の6人の子をもうけることになります。
宗次郎が要子に求婚した頃、要子の父・金古昌浩は塩田で働く労働者たちを束ねていました。
彼もやはり慶尚南道の三千浦出身の朝鮮人です。例の<三千浦にそれる>の三千浦で、現在は宗次郎の出身地と同じ泗川市ですが、入江を挟んで東側に位置しています。
彼は若い時から朝鮮と日本を往来し、労働者の斡旋もするようになります。そして大正の終わり頃幼い要子たちを連れて日本に渡ってきます。また、彼の「人柄を頼って、大勢の労働者が朝鮮や九州各地からこの町に移ってきた」そうです。父の方針で、要子は女学校に、弟の吾郎は名門中学に通いますが、半島の出身で日本の学校に通う子どもはこの町には他にいませんでした。
終戦直後から、三田尻の朝鮮人たちは大きな歴史の波に巻き込まれていきます。
(以下続く。)
※付記]上記のことと関連して、同じ防府出身の作家高樹のぶ子の祖父のこと
直木賞作家(&選考委員)伊集院静の出身高校は県立防府高校(1965年入学)です。同高校の4年先輩に芥川賞作家(&選考委員)の高樹のぶ子がいます。彼女が自身の防府で過ごした少女時代の経験を基に書いた自伝的小説「マイマイ新子」に、終戦以前は不在地主だった祖父のことが記されています。ほぼ同内容の記述が「朝日新聞」2003.1.5の記事「時代の風、平壌宣言は一瞬の夢か」にありました。防府の朝鮮人に関する部分を紹介します。
平壌宣言がなされた時、私は祖父のことを思いだした。旧制中学の教頭をしていた祖父は昭和十年代近隣のアジア諸国から日本に留学した学生たちの父親がわりとして、彼らを上の学校で勉強させる援助をしていた。中国、台湾、朝鮮半島からの学生が、常時二、三人我が家で寝起きしていたという。
その中の一人、劉さんは韓国に帰り、やがて石炭公社総裁や関釜フェリーの初代社長になって、私が中学生のころ、新聞記者を引き連れ、たくさんの土産と共に祖父を訪ねてきた。このときのことは「寒雷のように」という小説に書いたが、まさに寒雷のような出来事だった。
宴の中で劉さんは祖父への感謝の言葉と共に、日本のせいで韓国の発展は50年遅れましたと言った。そのときの祖父の複雑な表情を思い出す。
祖父が預かった学生の中で一番優秀だったのは、金シンゲンという朝鮮半島北部から来た青年だった。彼は祖国の発展のために人生を捧げます、と言って北に戻っていった。
二人は掃除の合間にハタキをズボンのベルトに差し、チャンバラごっこをしては祖父に叱られていたそうだ。
→ 伊集院静「お父やんとオジさん」で知る韓国・朝鮮[2]
伊集院静が自身の父親を主人公として書いたこの小説は、姜尚中の「母-オモニ-」とともに在日の著者が肉親のことを書いた小説として昨年注目されました。
この本の小説としての読み応え、たとえば侠気(おとこぎ)あふれる主人公宗次郎(=お父やん)の魅力と、彼が朝鮮戦争のさなか義弟(=オジさん)を救うため朝鮮半島に渡って活躍する後半部分のドキドキハラハラ感、そして著者自身も語っている家族愛の深さ等々については、すでに多くのブログで感想が書かれているので、私ヌルボとしては、「オススメの本ですよ!」とだけ言うにとどめておきます。
・・・で、このブログでは、この本の中から韓国・朝鮮にかかわる事柄をいくつか拾ってみました。
伊集院静は1950年2月の生まれ。朝鮮戦争勃発のわずか4ヵ月前ですから、いくら自分に直接関わる内容とはいえ、また作家としての想像力を働かせても、この小説のメインの部分の戦争末期~朝鮮戦争当時について書くのは大変だったと思います。
事実、作中の彼自身(「ボク」=直治)も、「父のもとで働いた人に話を聞いたとき、最初は信じられなかった。なぜ、仕事も家庭も順調な人が、妻のために命の危険を冒したのかと。韓国にも取材へ行きました。雑木林や松林の続く山並みは中国山地と似ている。でも、簡単に歩ける場所ではなかった」と記しています。
したがって、資料として読む場合、事実とフィクションの境を念頭に置く必要はあります。とくに、朝鮮半島内での叔父(吾郎)や父の単独行動の部分は、どんなに綿密・周到な取材をしたにしても、大部分は作家としての想像力に追っているところが大きいと思われます。
まず、小説の舞台、伊集院静の生地の山口県防府(三田尻)について。
朝鮮半島に近く、戦前から関釜連絡船が運航していることもあって、山口県は以前から在日朝鮮・韓国人が多い所です。現在も人口10万あたりの在日韓国朝鮮人の占める比率は大阪・京都・兵庫・東京・愛知に次いで全国6位です。
防府市も、当時(戦時中)港湾や塩田の労働者として多くの朝鮮人が働いていたことがわかります。
※三田尻塩田は1959年まで存続しました。
朝鮮人労働者たちがどのような経緯で日本にやってきたか、小説の中から拾ってみます。
「ボク(直治)」の「お父やん」高山宗次郎は、朝鮮半島南部の村(現慶尚南道泗川(サチョン)市昆陽面)の貧しい農家の三男でした。子供の頃から近所の小作農の手伝いに出されたりしていました。食べていくのがやっとの暮らしの中で、13歳の時に親から片道切符を持たされ、先に日本に来ていた次兄を頼って日本に渡ります。訪ねていった門司の工場にすでに兄はいませんでしたが、宗次郎は懸命に働き続けます。監禁同様の状態で働かされた炭鉱から命からがら脱出したこともあり、そして15歳になった時人の紹介で三田尻に来て沖仲士をするようになります。
宗次郎は、まだ女学生だった要子を見染めて積極的に父の金古昌浩に働きかけ、条件とされた運転免許を得て廻船問屋の定職に就き、結婚を成就させます。この要子が「ボク」の「お母やん」で、4姉妹と2兄弟の6人の子をもうけることになります。
宗次郎が要子に求婚した頃、要子の父・金古昌浩は塩田で働く労働者たちを束ねていました。
彼もやはり慶尚南道の三千浦出身の朝鮮人です。例の<三千浦にそれる>の三千浦で、現在は宗次郎の出身地と同じ泗川市ですが、入江を挟んで東側に位置しています。
彼は若い時から朝鮮と日本を往来し、労働者の斡旋もするようになります。そして大正の終わり頃幼い要子たちを連れて日本に渡ってきます。また、彼の「人柄を頼って、大勢の労働者が朝鮮や九州各地からこの町に移ってきた」そうです。父の方針で、要子は女学校に、弟の吾郎は名門中学に通いますが、半島の出身で日本の学校に通う子どもはこの町には他にいませんでした。
終戦直後から、三田尻の朝鮮人たちは大きな歴史の波に巻き込まれていきます。
(以下続く。)
※付記]上記のことと関連して、同じ防府出身の作家高樹のぶ子の祖父のこと
直木賞作家(&選考委員)伊集院静の出身高校は県立防府高校(1965年入学)です。同高校の4年先輩に芥川賞作家(&選考委員)の高樹のぶ子がいます。彼女が自身の防府で過ごした少女時代の経験を基に書いた自伝的小説「マイマイ新子」に、終戦以前は不在地主だった祖父のことが記されています。ほぼ同内容の記述が「朝日新聞」2003.1.5の記事「時代の風、平壌宣言は一瞬の夢か」にありました。防府の朝鮮人に関する部分を紹介します。
平壌宣言がなされた時、私は祖父のことを思いだした。旧制中学の教頭をしていた祖父は昭和十年代近隣のアジア諸国から日本に留学した学生たちの父親がわりとして、彼らを上の学校で勉強させる援助をしていた。中国、台湾、朝鮮半島からの学生が、常時二、三人我が家で寝起きしていたという。
その中の一人、劉さんは韓国に帰り、やがて石炭公社総裁や関釜フェリーの初代社長になって、私が中学生のころ、新聞記者を引き連れ、たくさんの土産と共に祖父を訪ねてきた。このときのことは「寒雷のように」という小説に書いたが、まさに寒雷のような出来事だった。
宴の中で劉さんは祖父への感謝の言葉と共に、日本のせいで韓国の発展は50年遅れましたと言った。そのときの祖父の複雑な表情を思い出す。
祖父が預かった学生の中で一番優秀だったのは、金シンゲンという朝鮮半島北部から来た青年だった。彼は祖国の発展のために人生を捧げます、と言って北に戻っていった。
二人は掃除の合間にハタキをズボンのベルトに差し、チャンバラごっこをしては祖父に叱られていたそうだ。
→ 伊集院静「お父やんとオジさん」で知る韓国・朝鮮[2]
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