学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「利氏元弘三年五月十二日馳参上野国世良田、令参将軍家若君御方之処」

2021-08-02 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月 2日(月)11時30分6秒

私は峰岸純夫氏の研究をきちんと押さえていなくて本当に恥ずかしいのですが、鎌倉脱出後の千寿王(義詮)の動向も峰岸氏がずいぶん前に明らかにされているのですね。
『太平記』によれば千寿王は元弘三年(1333)五月二日の夜半に鎌倉を脱出したとされていますが、その後の動向については『太平記』自体に矛盾した記述があり、また『梅松論』との整合性も取れません。

「千寿王(義詮)が新田義貞軍に合流した日付について」

結局のところ、編纂物の史料に頼っていては千寿王の動向はよく分らないと言わざるを得ませんが、峯岸氏は「新田義貞と足利千寿王─元弘三年五月、上野国新田荘の二つの討幕蜂起─」(『小川信先生古希記念論文集 日本中世政治社会の研究』所収、続群書類従完成会、1991)という論文で、康永元年(1342)八月十五日付の「鹿嶋利氏申状案」に「利氏元弘三年五月十二日馳参上野国世良田、令参将軍家若君御方之処、被付新田三河弥次郎満義<世良田>之手」という一文があることを紹介され、「将軍家若君」千寿王が五月十二日に世良田で軍勢を集めたことを明らかにされています。
問題の文書は相当に長文なので、峰岸氏が『人物叢書 新田義貞』(吉川弘文館、2005)で、その一部を読み下して紹介されている箇所を引用すると、

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A 鹿島利氏申状案
「関城において大将三州(高師冬)直ちに召し置かる申状案」
常陸国鹿島尾張権守利氏慎んで言上す
(中略)
右利氏、元弘三年五月十二日上野世良田に馳参し、将軍家若君御方に参ぜしむる
の処、新田三河弥次郎満義(世良田)の手に付せられ、数輩子息若党以下討死の忠に
よつて、将軍家度々御吹挙に預かり、去建武二年九月二十三日下吉景村地頭
職<海東忠行領知分>を充て賜り勲功の賞として当知行の条、官符宣并びに国宣御牒等分
明なり。随つて子息若党等討死の在所なり。たとい本領は相違ありといえども、
官符宣を下さる勲功の地においては、改動あるべからざるの由仰せ出されおわんぬ。
然らば早く元の如くこれを返し給り、永大不朽弓箭の面目に備えんがため、よっ
て言上くだんの如し。
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というもので(p45以下)、この「A 鹿島利氏申状案」を含む三つの文書の検討過程は省略しますが、峰岸氏はその分析を踏まえて、

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 このA・B・Cの関係文書によって、八月十二日に足利千寿王は世良田で軍勢を集めたということになる。その際に鹿島利氏が常陸から馳参したのである。常陸から鎌倉攻めに参加した人々の中には、大塚・塙・徳宿・烟田・宍戸などがその軍忠状から確認できる(「塙氏所蔵文書」など)。これらの人々の中には利氏と同様常陸から世良田に馳参した者もあったと考えられる。この背景には、義貞が常陸小田氏の娘を妻として、義宗を儲けていることと無関係ではないであろう。義貞の出陣要請が常陸にもたらされていることが推定される。
 それでは、足利千寿王は蜂起の地としてなぜ世良田を選んだのであろうか。先に述べたように(第一-二)世良田長楽寺の再建に尽力した大谷四郎入道道海がいるが、この人物は紀氏の出身である。また新田義貞の重臣船田氏も紀氏である。さらに世良田を中心とする新田荘の紀一族と足利氏家臣の紀五左衛門尉政綱との関連が想定される。想像をめぐらすならば紀五政綱はこの紀氏の縁を頼って鎌倉脱出後の足利千寿王を長楽寺にかくまった可能性がある。
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と推論されています。(p51)
「八月十二日に足利千寿王は世良田で軍勢を集めた」は「五月十二日」の単純な誤記でしょうね。
ま、この推論の是非はともかくとして、「五月十二日に足利千寿王は世良田で軍勢を集めた」という峰岸氏の結論は新田氏研究者の共通認識となっているようですね。
ちなみに田中大喜氏は、『新田一族の中世』において、

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 義貞の挙兵から四日後の五月一二日、尊氏の嫡子の義詮が世良田で挙兵した(康永元年<一三四二>八月十五日付鹿島利氏申状写)。『太平記』には、義詮は五月二日の夜半に鎌倉を脱出したと見える(巻一〇「千寿王殿大蔵谷を落ちらるる事」)。義詮は、鎌倉を脱出すると世良田へ逃れ、そこで匿われていたようである。義詮が世良田に逃れた背景には、足利本宗家の家人紀政綱と新田本宗家の家人船田氏との同族ネットワーク(船田氏も紀姓だった)が存在し、政綱が船田氏と連携して義詮を世良田に匿ったと想定する見解がある(峰岸純夫『新田義貞』)。興味深い見解だが、「雌伏の時代」の章で見たように、文永九年(一二七二)の二月騒動を機に、世良田氏も足利本宗家の庇護下に入ったことを想起すると、世良田氏(満義)が義詮を世良田へ誘い、匿った可能性も想定できよう。
 義詮の脱出は、尊氏の討幕計画のなかに含まれていたはずであるから、世良田氏のもとにも尊氏の指示が届けられていた可能性を想定でき、世良田氏はそれに従って義詮を匿ったと考えられるのである。推測の域を出ないが、世良田氏は義貞の挙兵に参加せず、義詮の挙兵に従った事実に鑑みると、あながち無理な想定ではないように思われる。
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とされています。(p157)
「あながち無理な想定ではない」というより、むしろこちらの方が素直な想定でしょうね。
さて、田中氏が言われるように「義詮の脱出は、尊氏の討幕計画のなかに含まれていたはずである」ばかりか、尊氏の討幕計画の中で最重要の課題であることは明らかですから、尊氏は義詮の鎌倉脱出について周到な手配を行なっていたはずです。
そして、繰り返しになりますが、尊氏が四月二十七日に討幕を決意したのでは義詮の鎌倉脱出は危険な賭けになってしまうので、尊氏の最終的決定は二十七日より前であり、二十二日の可能性が一番高いのではないかと私は考えます。
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