第200回配信です。
遠藤珠紀・水野智之編『北朝天皇研究の最前線』(山川出版社、2023)
家永遵嗣(1957生、学習院大学教授)
https://www.gakushuin.ac.jp/univ/let/hist/staff/ienaga.html
https://www.gakushuin.ac.jp/univ/let/hist/staff/ienaga.html
家永遵嗣氏「第三章 政治的混乱が「国制の一元化」「皇統の一本化」になったわけ」は若干微妙な論考。
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はじめに─幕府の内部抗争と北朝の中絶・復活
天皇の即位式費用が「国制」の転換のきっかけとなった
天皇家・将軍家の血縁関係と皇位継承の一本化
一 国司の税務の消滅─「二元的国制」から「一元的国制」への転換
「観応の擾乱」前後における幕府法の変化
「国司の税務」の消滅と足利直義の信用失墜
二 「一国平均役」の徴税を幕府に委託する朝廷
「大嘗会米」の徴税を幕府・守護に委ねる
「正平一統」により崇光の大嘗会は中止
三 足利義詮の挽回策─「正平一統」とその破綻
南朝側の真意は幕府討滅にあった
後村上の即位式・大嘗会と吉野に贈られた「三種の神器」
四 北朝三上皇の吉野幽閉と後光厳天皇の践祚
光厳の皇子弥仁か、崇光の皇子栄仁か?
春日大明神の託宣に背く形になってしまった
五 北朝の惨状と足利義詮の将軍親裁
諸役勤仕を拒否する公家衆
「正平一統」の破綻が「国制の一元化」を促進した
六 持明院統の分裂と皇位継承の一本化
崇光上皇・後光厳天皇兄弟の相続争い
後光厳の血筋を守った女官の日野宣子
おわりに─「皇位の一本化」のカギを握っていた足利義満
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p74以下
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天皇の即位式費用が「国制」の転換のきっかけとなった
建武政権(一三三三~三六年)の崩壊後も幕府のなかには、京極(佐々木)道誉(一三〇六~七三)らのように南朝との提携を望む者がいた。これを懸念した北朝・持明院統の家長光厳上皇(一三一三~六四)は、足利尊氏(一三〇五~五八)の子義詮(一三三〇~六七)の母方の従兄弟にあたる直仁親王(一三三五~九八)を即位させて、将軍家との結びつきを強めようとした(八六頁の系図参照)。
光厳は直仁の兄崇光天皇(一三三四~九八)の即位儀式を完了させて、崇光から直仁に譲位させようとしたが、崇光の即位式の費用をめぐって幕府内部に分裂を引き起こすきっかけとなってしまった。
貞和五年(一三四九)、朝廷は崇光天皇の即位式の費用を自力では調達できないとして、将軍家の私財を献上するように求めた。朝廷の儀式費用は国司を介して諸国に課すべきものだが、実際には徴収ができなくなっていたようだ。法制や朝廷交渉を担当していた尊氏の弟直義(一三〇六~五二)と、将軍家の家政・財務を司っていた尊氏の執事高師直(?~一三五一)と対立して、抗争になった。
松永和浩・久水俊和は、これを契機として国司の税務を幕府・守護が肩代わりするようになるという(松永:二〇〇六、久水:二〇一一)。【中略】
足利直義は、崇光天皇即位式にかかわる前述の紛議で、貞和五年八月に隠退させられた。そのため、直義は明くる観応元年(一三五〇)末に南朝に降って挙兵し、「観応の擾乱」(一三五〇~五二年)となった。尊氏・義詮父子は、翌年二月に直義に敗れて、師直一族は殺されてしまう。尊氏・義詮は、同年七月に直義との戦いを再開して南朝に降り、十一月には「正平一統」となって北朝は中絶となる。
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0085 長谷川明則氏「赤橋登子─足利尊氏の正妻─」(その7)〔2024-05-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b9eb3dfa4944289c0ba28e642dfa2bff
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b9eb3dfa4944289c0ba28e642dfa2bff
「崇光天皇即位式にかかわる前述の紛議」が足利直義が「貞和五年八月に隠退させられた」原因であって、ひいては観応の擾乱の原因となった、という見解はかなり珍しい立場なのではないか。
松永和浩・久水俊和氏は家永説を支持されているのか。
p78以下
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「国司の税務」の消滅と足利直義の信用失墜
公家の洞院公賢(一二九一~一三六〇)の日記『園太暦』貞和五年(一三四九)二月二十一日条によると、光厳上皇は同年三月に崇光天皇の即位式を行う予定を立て、費用を二千七百貫文と見積もり、武家の私財献納を意味する「御訪〔オトブラヒ〕」の形で提供するように幕府に求めた。幕府は朝廷が自力で費用をまかなってほしいと求めたが、北朝には手立てがなく、即位式の目処が立たなくなった。北朝が費用を自力調達できない点から、国司の収税が機能していなかったと推測できる。
醍醐寺座主の三宝院賢俊(一二九九~一三五七)の斡旋で上納額を二千貫文に減じたため、幕府が進献に同意した。しかし、当時は尊氏の新邸を造営中(同月八月十日に竣工・移居)だっため、新邸造営費用と即位式費用の負担が合わさって、幕府財務の難題になった。
即位式は七月に延期されたが、六月に高師直と足利直義の対立が表面化した。『園太暦』閏六月二日条には、「直義と師直の間に対立があり、兵火に及ぶだろう」という噂が記されている。この直後に予定が変更されて即位式は十月に延期され、「御訪」の期限も九月になった。対立の原因は、おそらく「御訪」を期限どおりに上納することが困難だったことにあったのだろう。
八月になって、また対立が起きた。「御訪」の上納期限がやってくるたびに内紛が起きたのだ。尊氏新邸の竣工と同じ頃に、直義が高師直を斥けることを謀ったらしい。八月十三日に師直は大軍を集めて直義を討とうとした。在京武士のほとんどが師直に与する様相となったために、尊氏・直義が妥協した。そのため直義が政務から退くことになり、鎌倉にいた尊氏の三男義詮を上洛させて直義に代わらせることとした。
国司の税務に実態がなかったために、予想もしていなかった天皇即位式についての幕府の負担が生じ、直義の朝廷対策や法制についての信用が失墜したのである。
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光厳院は貞和五年(1349)三月に崇光天皇の即位式を予定。
→同月、尊氏邸が火災。
※尊氏新邸造営の関係で即位式は七月に延期。(第一回延期)
閏六月 (『太平記』によれば)直義が師直暗殺を謀る。
同月十五日 師直、執事を解任される。
※即位式は十月に延期。(第二回延期)
八月十四日 直義が尊氏邸に逃げ込み、師直が大軍で包囲。直義引退、義詮の上京が決まる。
※即位式は十二月に延期(第三回延期)
十月二十二日 義詮入京。
十二月八日 直義出家。
二十日 上杉重能・畠山直宗、配流先の越前国で殺害される。
※二十六日 崇光天皇即位式
二十七日 尊氏、直冬の討伐を命ずる。
観応元年(1350)
※十月十九日、光厳院、大嘗会の延期を決定。
十月二十六日 直義、京都を脱出。
二十八日、尊氏・師直、直冬討伐のために京都から出陣。
十一月二十三日 直義、南朝に降伏。
十二月、桃井直常、越中から出陣。
観応二年(1351)
二月十七日、摂津打出浜の戦いで尊氏軍大敗。
二十六日 師直・師泰以下、高一族斬殺される。
コメント、ありがとうございます。
家永説、変ですよねー。