投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月 5日(月)14時10分7秒
長尾龍一氏の尾高朝雄と清宮四郎に対する評価は極めて厳しいですね。(「ケルゼン伝補遺」p154以下)
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ケルゼンと日本(4) 尾高朝雄と清宮四郎
ケルゼンを多く論じながら、その批判的知性を骨抜きにして、他のイデオロギー的目的に転用した人々もある。
尾高朝雄は一九二八年からしばらくウィーンでケルゼンに学び、個人的に非常に愛された。彼は、ナチに対しては終始敵対的で、反ユダヤ主義にコミットしなかったのはもとより、ケルゼンの論敵カウフマンやスメントにも批判的態度をとり続けた。ケルゼンがケルン大学を追われた時、清宮と京城帝国大学に招聘しようかと真剣に考え、多少の行動に出たらしい(清宮四郎「ケルゼン─鋭利な学説と温和な人柄」(鵜飼信成編『ハンス・ケルゼン』一五九頁)。
しかし彼は、国家は現象学的直感によって認識される精神的実体であり、雑然とあらゆるアプローチを併用するのが国家学だという主張を基礎にケルゼンを批判し、またケルゼンの第一次規範(法規範)と第二次規範(社会規範)の序列を逆転させた。ケルゼンによれば、多元的社会においては立法の候補としての社会規範は複数存在し、立法によって初めて立法者が前提としていた「社会規範」が明らかになる。「殺すなかれ」という規範がまずあって、刑法の殺人罪の規定が当然に成立するというような仕方で、すべての法が成立すると考えるのは、一元的社会のモデルである。
根本規範は規範的思惟の窮極の前提としての仮説であり、この前提を受け容れることも受け容れないこともでき、この受け容れを拒否する者には法も国家も存在しない、というのがケルゼンの根本規範論である。これは、規範的思惟とは人間の主観の中の存在であって、それによって構成された法体系や国家は、山とか川とかのような外界の存在ではない、というケルゼンの経験論的存在論に由来する。例えば「勲章」は、革命が起れば単なる布切れになる。あるいはその国家権威を否定する革命家やアナキストにとっても単なる布切れである。根本規範の仮説性を認識している者にとっては、それは当り前のことだ。しかし尾高からすれば、布切れのうちに、現象学的直感によって知り得る神秘な権威の実体が宿っており、それは革命家にとっても存在する客観的存在である。このようなフェティシズムへの回帰を、彼はケルゼンの克服と称しているのである。
清宮四郎は、この根本規範の仮説性という、ケルゼン理論の基本思想を変更し、根本規範は実定憲法の重要規範であると再解釈する。こうなれば、旧憲法においては「国体」が、日本国憲法においては民主主義や平和主義が「根本規範」で、憲法改正権の限界外にあることになり、この議論は実定憲法の超実定法的正当化論に転化する。
両者のケルゼン論は「ケルゼン・マイナス・批判的知性」(何が残るか?)と特色づけることができよう。
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わはは。
石川健治氏がこの「「ケルゼン・マイナス・批判的知性」(何が残るか?)」に対してブチブチ文句を言っているのは知っていたのですが、ここまで手厳しいとは思っていませんでした。
妖刀・長尾正宗の切れ味は無慈悲なまでに鋭いですね。
ま、個人的には尾高はもう少し情状酌量の余地があるのではないかと思うのですが、清宮はこんなものじゃないですかね。