学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

田中耕太郎『私の履歴書』

2015-10-13 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月12日(月)22時58分39秒

今日は「研究会 清宮憲法学の足跡」の続きを書く予定だったのですが、田中耕太郎の『私の履歴書』(春秋社、1961)を読み始めたら止まらなくなってしまい、結局、同書を含め、田中耕太郎関係の本をひたすら読んで終わってしまいました。
『私の履歴書』は最高裁判所長官の激務を終えた田中が、新たに国際司法裁判所判事としてオランダ・ハーグに向う前に日本経済新聞社の求めに応じて書いたものですが、田中の芸術的才能の豊かさを感じさせる香気溢れる名文で綴られており、学者モノはあまり面白くないのが通例の「私の履歴書」シリーズの中では別格の傑作と言ってよさそうです。
商法の研究のために留学を命ぜられたのに、そんな研究は日本でできるから留学してまでやる必要はないと開き直り、3年間の大半をヨーロッパでなければ経験できない文化芸術活動、即ち傍から見れば単なる物見遊山に費やした度胸の良さは見事です。
宗教面では、やはり内村鑑三に破門された経緯が一番面白いですね。

>筆綾丸さん
>(一九四六年四月三十日条)
田中耕太郎は終戦直後の1945年10月に文部省学校教育局長となり、翌年5月、第一次吉田内閣の文部大臣となっているので、1946年4月30日の時点で帝大教授の肩書きは誤りではないかと思ったのですが、『私の履歴書』によれば、学校教育局長は東大教授との兼任だったそうですね。
文部大臣はさすがに兼任は駄目だったとのことですが。
田中は貴族院議員を経て、1947年、第一回の参議院議員選挙に出馬し高位当選して参議院議員となり、その任期中の1950年3月、最高裁判所長官に転ずるという目まぐるしさで、戦前の学者生活に比べると実に変動の激しい人生ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

田中ラードブルッフ耕太郎、謹んで奏上す 2015/10/11(日) 19:21:19
小太郎さん
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/index.html
http://www.geocities.jp/taizoota/Essay/gyokuon/kaisenn.htm
原武史氏の『「昭和天皇実録」を読む 』を眺めていて、「破砕」は「開戦の詔書」(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)に出てくる格調高い言葉なんだな、とあらためて知りました。(同書127頁)
----------
・・・東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ・・・
----------

http://www.kurobe-dam.com/event_info/1513.html
http://shin-toyama.com/c3/e3.html
形而上的な「法の破砕」ではなく形而下的な「破砕帯」であれば、黒部ダムで見学できますね。北陸新幹線開通に伴う人気スポットのようです。

田中ラードブルッフ耕太郎も、同書に出てきます。
--------------
三十日、カトリック信者の東京帝国大学教授・田中耕太郎から「キリスト教ニ就テ」と題する進講を皇后とともに受けています。
 ローマカトリック教とギリシャ教の差違、イタリア国首相ベニト・ムッソリーニがヴァチカン国と条約(一九二九年のラテラノ条約)を結んだ理由、カトリック教が布教に格別熱心な理由につき御下問になる。(一九四六年四月三十日条)(190頁~)
--------------

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%80%95%E5%A4%AA%E9%83%8E
田中耕太郎のウィキの項を見て不思議に思うのは、田中の受洗に触れても洗礼名への言及がないことですね。英訳には辛うじて洗礼への言及がありますが、独訳は無視しています。華々しい勲章には触れているですが、キリスト者としての内面などはどうでもいい、ということらしく、それはそれで、まあ、ひとつの見識ではありますが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラードブルッフ『法哲学』、「邦訳序」(その2)

2015-10-13 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月12日(月)22時21分32秒


続きです。

---------
 これと同時に私はラードブルッフ教授から翻訳の許可を得ることを引き受けた。当時直接交渉は種々の事情から困難な状態にあり、私の手紙に対する同教授からの翻訳快諾の手紙を、独逸フライブルクのヘンデル書店と東京エンデルレ書店の厚意ある中継によつて受け取つたのは昨年初夏の頃であつた。教授の手紙(一九四九年二月六日附)には私と妻とが、曾てハイデルベルヒに教授を訪れたこと(一九三六年)を懐しく思ひ出すこと、又戦争の最悪の時期においてなほ自分の書物に興味をもつてくれたことを幸福に思ふことが附け加へて書いてあつた。
 その間私は、誤りなきを期するためにはできるだけ多くの目を通した方がよいと思つて、全部の原稿を一応通読した。誤訳や不適訳は極めて少なく、仕事は良心的に忠実になされてゐると思つた。しかし光彩陸離、芸術味豊かな教授の文章の真面目を遺憾なく伝へることは殆んど不可能に近い業である。それにかやうな種類の書物について誤訳が絶対にないとは保障し難い。正直なところ我々はもし誤訳が少ないならば満足しなければならぬのである。
 我々は教授の学恩に答へるために、教授に速かに訳書を贈呈したかつた。ところが昨年の暮おしつまつて、ヘンデル書店を通じて教授の訃報が入つた。教授は昨年十一月二十三日、第七十一回の誕生日の二日後に急逝されたのであつた。全世界の法哲学者で彼の死を知つて悼まぬものは一人もなかつたであらう。私個人の悲しみと淋しさは無限である。本訳を教授の生前に公刊し得なかつたことは、痛恨の極みである。ただ我々として本訳を未亡人に、我々の亡き教授に対する絶大の敬愛のしるしとして呈することで以て満足しなければならぬ。
 終りになほ一言附加する。我々は我が国において新憲法実施以来民主主義が口にせられるが、それはなほスローガンの域を脱しないで、反民主主義的諸現象が横行してゐる。本書はナチ的ファッシズムの独裁下にあつて民主主義の理論的基礎付けを試みたものである。爾来時勢は変転したが我々は今は左翼的暴力の支配の脅威に晒されてゐる。民主主義は自らを防衛する権利をもつものであり、その脅威に対し拱手傍観するのは信念ある民主主義者の態度とはいひがたい。我々は朝鮮問題の勃発により日本のみならず全世界の民主主義の危機が切迫してゐる今日において、本書が民主主義の防衛のために戦ふ者に必要な理論的武器を供する意味で、なほ歴史的役割を演ずることを確信するものである。
  昭和二十五年(一九五〇年)七月十二日
           田中耕太郎
--------
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラードブルッフ『法哲学』、「邦訳序」(その1)

2015-10-13 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月12日(月)21時58分24秒

昨日の投稿「『恩師』の水浸し」で、『法哲学』の序文についてあやふやな記憶で書いてしまいましたが、確認してみたら、研究会は戦時中の昭和19年6月に始まっており、参加者の大半は留学経験のない若手研究者でした。
田中の役割は実際には訳者ではなく監修者ですが、田中が執筆した「邦訳序」はなかなか興味深い内容なので、適当なことを書いてしまったお詫びを兼ねて、原文を紹介しておきます。
旧漢字を改めただけで、仮名遣いはそのままにしてあります。

--------
邦訳序

 グスタフ・ラードブルッフ教授の「法哲学要綱」第一版(一九一四年)が公刊されてから三十六年、又その第三版に該当する「法哲学」(一九三二年)が世に出てから十八年、それに対する我が法学界の大なる評価とそれが我が法学界に及ぼした深甚な影響はけだし測り知るべからざるものがある。しかしながら本書をその原著について精読した者はその範囲が極めて限局されてをり、法学に志す者すら必ずしも直接その内容に親しんでゐるとはいへない。況んや所謂社会科学や文化科学や政治経済を論ずる者においておや。我々はラードブルッフの法哲学が、単に法哲学の分野のみに限らず、社会、政治及び文化一般に関する学問に従事する者に対する甚だ高級な入門書であり、且つ既得の智識を消化し整序する仕上げの書たることを信ずる。さうしてこの書が時代的背景の所産でありながら、しかも永遠の課題と直接とり組んでいる意味において、我々はそれが古典的価値を有することにつき決して疑を懐かないのである。
 かやうな意味において我々は既に久しい間、本書が邦訳せられ、一層広い読者層をもち、以て我が思想界文化界の水準の向上に資することを切望してゐた。偶々太平洋戦争が我が国にとつて断末魔の様相を呈し、東大の教授陣や学生は一般の大学の例に漏れず、防空や勤労や学徒出陣や図書疎開等に寧日がなかつた頃の昭和十九年六月、ラードブルッフ法哲学の研究会が東大法学部の大学院特別研究生や助手の諸君の熱心な希望によつて誕生したのであつた。そのメンバーは小山昇、服部栄三、綿貫芳源、矢沢惇、守安清、伊藤正巳、加藤一郎、滋賀秀三、雄川一郎、石川吉右衛門、池原季雄、山本桂一の諸君である。その以外に同僚尾高朝雄教授と私はこれ等の若手の諸君の希望によつてこの研究会に参加し、会合を指導することになつた。空襲が益々熾烈を加へ、会員の中に罹災者が続出し、世情騒然、生活急迫を加へてきたにかかはらず、毎週一回の輪読は規則正しく続けられた。空虚な号令と虚偽なニュースが充満してゐる世間の騒音を外に、我々は血肉が躍動してをり、芸術的香気の高い本書を一章一章と読み続け、学問的栄養を摂取する幸福をしみじみと感じたのであつた。この協同的な仕事こそ、私個人としても、東大法学部勤務三十年間における最も楽しく且つ懐しい経験として今日これを回顧するのである。我々はこの仕事に参加した諸君が今日新進の学者として東大を初め各大学の教授陣を充実してゐることを心から喜ばしく感じるとともに、このラードブルッフの研究が諸君の学問の内容と方向付けに大きな寄与をしたこと、ことにこれによつて諸君が法哲学的真理の探求に情熱をもつやうになり、又相互間に気高い学問的協同体を作つたことを信じて疑はないのである。
 研究会は終戦直後の昭和二十年九月を以て予定の仕事を完了した。その後間もなく、参加者の勉強のために、又楽しかつた協同研究を記念するために、翻訳の話がもち上つた。各自はそれぞれ分担の部分を訳し、昭和二十二年三月までに、第一章乃至第十五章は服部君が、第十六章乃至第二十九章(終章)までを矢沢君が整理し、尾高教授と読み合せを行つた。
--------

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする