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『アカネ』における三井甲之と土屋文明の交錯

2015-10-27 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月26日(月)22時26分9秒

原理日本社ラッパー説、自分でもちょっと気に入って、そういえば蓑田胸喜自身が、自分が何故あのように太字や傍点がやたらめったら多い、しつこくて粘っこい文体で書くかについてクドクド弁明していた文章があったはず、と思って去年コピーした資料を漁ってみたのですが、なかなか見つかりません。
その代わりと言っては何ですが、片山杜秀氏が三井甲之について論じた文章の中に三井甲之と土屋文明の接点を伺わせる箇所を見つけたので、つい先日、土屋文明に少し触れたことでもあり、備忘のため引用しておきます。
片山氏が述べておられるように、普通の文学史では意図的に無視されている短歌史の一側面ですね。
出典は竹内洋・佐藤卓己編『日本主義的教養の時代』(柏書房、2006)所収の「写生・随順・拝誦 三井甲之の思想圏」です。(p106)

『日本主義的教養の時代』
http://www.kashiwashoboco.jp/cgi-bin/bookisbn.cgi?isbn=4-7601-2863-8

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【前略】
 どうやら明治三十八年に、根岸短歌会に入会した甲之は、趣味と信仰、作歌と生活の、間髪入れぬ一致を説いて、子規の後継者として同会を主宰していた伊藤左千夫に、たちまち重用される。政治までを包括するものとしての歌の権能の回復を志向していた甲之が、芸術と生活、創作と実人生の一致を説くのはまずは当然であり、左千夫が、この甲之との本格的交際が始まるのと時期を同じくして、十九日会という「趣味と信仰との交話を目的」とする会合を主宰しはじめていることからも、当時の左千夫と甲之の蜜月の程合いが分かる。そして、明治四十一年一月、左千夫は根岸短歌会の機関誌『馬酔木』の終刊を宣し、後継誌『アカネ』の編集代表者に甲之を指名する。ここに甲之は、子規、左千夫と受け継がれた根岸派の正系に、一時的にではあったが、位置づけられたのであった。
 しかし、『アカネ』は、単なる短歌誌としての性格を逸脱した編集傾向等により、短歌会旧同人たちとの溝を深めてゆき、反『アカネ』派は、同年十月『アララギ』を発刊するに至る。以後の文学史が、この『馬酔木』から『アララギ』への線を根岸派の正統の展開と見て、『馬酔木』から『アカネ』、次いで『人生と表現』から『原理日本』へという線をほとんど無視していることは、確認するまでもない。
 『アカネ』は、明治四十五年に『人生と表現』と改題され、一段と政治色を強めて、ついに大正十四年、『原理日本』の創刊につながる。『原理日本』は、「大東亜戦争」末期まで継続する。甲之が逝ったのは、昭和二十八年である。
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「一時的にではあったが、位置づけられたのであった」に注21と記され、注21を見ると「このあたりの事情については、山本英吉『伊藤左千夫』(東京堂、一九四一年)が詳しい」とあります。
ここで群馬県土屋文明記念文学館サイト内の「土屋文明略年表」を見ると、1908年(明治41)の項に<「ホトトギス」「アカネ」に投稿>とあります。

「土屋文明略年表」
http://www.bungaku.pref.gunma.jp/profile/chronologicaltable

三井甲之と土屋文明はともに旧制一高・東京帝大文学部というコースを歩みますが、三井は1883年(明治16)生まれ、土屋は1890年(明治23)生まれで、三井の方が7歳も上であり、三井が『アカネ』の編集代表者となって根岸派の分裂騒動を惹き起こした1908年の時点では土屋はまだ高崎中学校に在学中ですね。
翌年、土屋が上京して伊藤左千夫宅に寄宿した時点では分裂騒動は決着済みですから、三井と土屋との間には直接の接触はなさそうですが、念のため、後で山本英吉『伊藤左千夫』を見ようと思います。

なお、敗戦後の三井甲之については、昆野伸幸氏『近代日本の国体論』(ぺりかん社、2008)の感想を兼ねて、以前少し書いたことがあります。

三井甲之の戦後
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0a6024d8d9642b9d8f2eb8293290780c
「変節」「転向」「偽装」ではないけれど・・・
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a5f5d31b7d8616eee31d6fbaf2c046d

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