学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「馬上の乃木将軍に遭った」(by 土方成美)

2014-11-12 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年11月12日(水)09時24分50秒

将基面貴巳氏の『政治診断学への招待』(講談社選書メチエ、2006)を読んでみましたが、最初の方に矢内原忠雄への言及が少しありますね。
正直、この本もあまり感心しませんでしたが、世間的にも特に評判を呼ばなかったようで、書評は乏しいですね。

書評:小林良彰氏(慶應大学教授)
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011072701071.html

矢内原忠雄は殆ど聖人の如く立派な人なので、本人の回想録や周囲の人の思い出を読んでいると、本当に立派な人物だなあと感心するのですが、あまり続くといささか鬱陶しい感じもしてきますね。
その点、土方成美は世俗の人であり、あまり自己の内面を見つめることはない代わりに、外部に対する好奇心が旺盛なので、『事件は遠くなりにけり』には時代背景を知るために役に立つ情報が多いですね。
例えば、姫路生まれの土方(当時は町田姓)が明治41年(1908)に初めて東京に出てきた時の様子は以下の通りです。(p47)

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 この間私は中学を卒業して明治四十一年には岡山第六高等学校に入学した。(中略)当時は中学の卒業期が三月、高等学校の入学期は九月でその間約六ヵ月間のブランクがあった。これは甚だよい事だと今でも思っている。自分は一度東京が見たいという念願から父に頼んで、早稲田予備校に入る事にし、父に連れられて上京した。これは明治四十一年四月、お江戸の春も真っ盛りのころであった。郷里の姫路から新橋まで、神戸駅で乗換えて、約二十四時間を費したと思う。浜松あたりで、生まれて始めて遠くに富士を見た。もちろん、三等車、食堂車はなく、寝台車はあったかも知れぬが、大概の人はこれを利用しなかった時代である。夜も殆ど眠らず、ろくに食事も取らず、オズオズしながらの旅であった。品川駅に着いた時、プラットフォームのすぐ下まで、浪が洗っているのを見て気分がやや清々した。
 当時の新橋駅(東京駅は未だ出来ていなかった。)は、現在の汐留駅の場所、銀座通りからは、ちょっと横にはいった所にあった。近所のすきやき屋で食事を済し、それから人力車で愛宕の石段下にあった信楽(しがらき)館という宿屋に落ついた。この旅館は父が代議士時代に暫らく宿泊した事のある宿屋であったが、それから数年を隔てたこの時には、顔見知りの女中もいなかった。父は定めし寂しかったことと思う。新橋駅について、すぐ私の目についたのは、今の銀座四丁目辺にあった博品館の洋風の建物であった。当時は勧工場が大流行で、未だ百貨店は流行していなかった。翌日、愛宕山に上って大審院(今の最高裁判所)、司法省などの建物を見て、流石は東京だと思った。私は内気で馴れない電車に乗る気にならず、人力車も嫌いというので、徒歩で地図を探りながら、愛宕下から早稲田まで歩いた。桜の花の綺麗に開いた高台の上で、地図を案じた場所は、今から思えば赤坂見附であった。堀端伝いに牛込見附に向う途中、馬上の乃木将軍に遭った。学習院からの帰途であったらしい。早稲田予備校で入学の手続きを済まし、入学手続といっても、結局入学料、授業料を払うことだが、帰途は、同郷の早稲田大学の学生が、電車で愛宕下まで送って来てくれた。この時私は始めて電車というものに乗った。電車が急カーブするのも珍らしく、「曲がりますからご注意を」の口上も面白く聞いた。当時電車は江戸川橋までしか通じていなかったが、江戸川の桜は美しかった(その後の堤防工事で、今日は殆んど跡かたもない。)。
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土方成美(1890-1975)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%96%B9%E6%88%90%E7%BE%8E
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