学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「憲法九条の大事に参ず」

2015-10-24 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月24日(土)08時57分41秒

昨日の投稿、まるで日本法理研究会と原理日本社を同じレベルであるかのように書いた点はちょっとまずかったですね。
蓑田胸喜と原理日本社の人々は、他人を説得しようとする緻密な論理を持たず、自分たちが一方的に敵と認定した人々を攻撃する過激な言葉を独自のリズムで執拗に繰り返しているだけなので、ある種のラッパーの集団ですね。
それに対し、日本法理研究会は、偏狭な面はあるとしても、あくまで論理を語っている学者・実務家の集まりです。
塩野季彦の「皇国の大事に参ず」など、その大袈裟な表現は現代人にはコミカルな印象を与えますが、用語をちょこっと変えて、

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 今年こそは憲法九条の敵を打破る年である。否打破らなければならぬ年である。
 戦局は愈々大詰に来た。苛烈とか、深刻とか、形容詞で現はすべき段階ではない。憲法九条が亡びるか、亡びないかといふ年である。
 憲法九条不滅はたしかに我々日本人の信念である。天佑と神助はまさに憲法九条の齎すところである。しかしそれは飽くまでも、我々自身が自らの全存在を憲法九条の運命に一体化せしめ、身を以て憲法九条の危急に殉ずることを前提としての立言であつて、かゝる積極的の心構へと実践なくして、いたづらに憲法九条の不滅を説き、神風に頼ることは、却つてこの戦争を傍観する者の態度であつて、この期に及んでは憲法九条の為に危険であると申さねばならぬ。
 かゝる他力本願的な観念を反省すると共に、一方、一局部面の小波瀾に一喜一憂することなく、世界史を動かす大きな底のうねりに真正面から取り組んで行く態度こそ、現下の日本人に求められるところであらう。
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みたいにしてみると、それほど古風でないばかりか、つい最近も聞いた覚えがあるような感じがしてきます。
例えば樋口陽一氏が「共同代表」で、長谷部恭男・石川健治・木村草太・高見勝利氏らの著名な憲法学者が「呼びかけ人」となっている「立憲デモクラシーの会」の「設立主旨」を見ると、

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安倍政権は、2つの国政選挙で勝利して、万能感に浸り、多数意思に対するチェックや抑制を担ってきた専門的機関――日本銀行、内閣法制局、公共放送や一般報道機関、研究・教育の場――を党派色で染めることを政治主導と正当化している。その結果現れるのはすべて「私」が決める専制である……

日本は満州事変以後の国際連盟脱退のように、国際社会からの孤立の道を歩もうとしている……

万能の為政者を気取る安倍首相の最後の標的は、憲法の解体である。安倍首相は、96条の改正手続きの緩和については、国民の強い反対を受けていったん引っ込めたが、9条を実質的に無意味化する集団的自衛権の是認に向けて、内閣による憲法解釈を変更しようとしている。政権の好き勝手を許せば、96条改正が再び提起され、憲法は政治を縛る規範ではなくなることもあり得る……

http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/yobikakenin

などとあり、語彙は違っても、その表現の大袈裟さは塩野の「皇国の大事に参ず」と殆ど同じレベルであり、コミカルな感じもだいたい同じようなものに思えます。
(個人の感想です。)

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