学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「四十年のふ思議なつきあい」(by 志賀義雄)

2015-10-18 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月18日(日)11時09分27秒

『田中耕太郎 人と業績』に、日本共産党の古参幹部で徳田球一と共に『獄中十八年』(時事通信社、1947)を著し、後に同党を除名されて「日本の声」を創設した志賀義雄(1901-89)が一文を寄せているので(p405以下)、どういう事情なのかと思いましたが、これは峰子夫人との関係みたいですね。

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【前略】
 私は一九二八年の三・一五事件でつかまったので、田中さんを知らなかった。予審が終結して、面会ができるようになったのは三〇年の四月ごろであった。妻も被告だったので、その所在を裁判所にはっきりしておかなければならない。そこで妻が友人の松岡道子さんに相談したら、田中先生のお宅に頼めば、裁判所も検事局も文句がないだろうということで、上京してしばらく田中さん御夫妻のごやっかいになった。田中さんとのつきあいもこの偶然の産物だ。
 ある時、妻が二十日大根を差入れしてくれた。「これは田中さんが御自分で種子をまいて、御自分でとって下さったものです」との話で「志賀君によろしくと言われました」。
 彼女はドイツ語を少しばかりやるので、田中さんは「これを読んでごらんなさい」と言われ、面会所にラートブルフの法哲学の本を持って来たこともある。
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その後、「峰子さんが妻と一緒に面会に来られた」こともあるそうです。
また、「公判廷にならんだ判事のうち、第一陪席の西久保良行判事も第二陪席の尾後貫荘太郎判事も、私より年上だが、友人であり知人であった」といった事情もあって、当初は多少は穏やかな待遇を受けていたようですが、1931年9月、「中国侵略戦争が勃発して、われわれをとりまく空気も急速に悪化」し、1935年の天皇機関説事件以降は「蓑田胸喜などが田中教授まで非難する空気なので、私は田中御夫妻宛の手紙はいっさい書かなかった」そうです。
そして、

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 十八年ぶりに出獄した翌年二月、一高の記念祭にまねかれた。天野貞佑さんが校長で、田中さんも安倍能成さんも来られた。その時、二人とも私のことにふれられたが、特に田中さんは「志賀君は未決時代から知っているが、多年獄中でがんばるなんて、史的唯物論では説明できない」と言われた。そのあとで私は「いやその史的唯物論にしたがって行動したまでです」と答えた。二人の話で会場はわいた。
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のだそうですね。
ちょっと興味を持って、志賀義雄夫人について検索してみたら、神戸大学電子図書館システムの「京城日報」1929(昭和4)年7月23日の「三・一五事件残余の分」という記事が出てきましたが、小見出しの「東京女大から三名の党員 何れも名家の出で花々しい女闘士」のあたりを読むと、

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東京女子大学から三名の共産主義者犯人を出したがその三名の共産主義犯人中二名までも裁判官の令嬢であることは注目に値する即ち東京女子大学から出た主義者波多野操子、志賀多恵子、伊藤チヨ子の三名中前二女は何れも裁判官の令嬢で操子の父君は北海道某地方裁判所から東京附近の某裁判所に転じ更に某控訴院に転じた人である、【中略】更に志賀多恵子(二四)も又某控訴院某部長の令嬢であり、福本イズム本尊福本和夫の股腹ともいうべき志賀義男の妻で埼玉県岩槻町太田に生れ大正十二年三月函館高等女学校を卒業し同年四月東京女子大学に入学昭和二年四月卒業をした才媛である、女大在学中波多野女や伊藤女等と共に社会科学研究に興味を持ち卒業後実際運動に身を投じしばしば検束留置等彼等のいわゆる名誉なる災厄を経て同志よりは勇敢なる婦人闘士の名を与えられるに至りその中同志の志賀と恋を語る事となり結婚したものであるが市ヶ谷刑務所に収容中本年一月突然発狂し看守を殴打したことありために保釈となったもので目下大阪の実家に引取られている、

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071436&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

などとありますね。
峰子夫人は東京女子大で志賀多恵子(旧姓高橋)と知り合いだったのでしょうか。
ま、背景を調べだしたら大変な手間と時間がかかりそうですが、出発点の志賀義雄の一文に戻ると、このエッセイにおける最大の謎は、タイトルの「四十年のふ思議なつきあい」の「ふ」がひらがなになっている点ですね。
これは宮沢俊義の「深い学識と強い信念」(p244以下)で、宮沢の肩書きが「元東京大学名誉教授」となっているのと並んで、『田中耕太郎 人と業績』の二大「ふ」思議です。
ま、たぶん単なる誤植なのでしょうが、個性の強い元共産党指導者ですから、かな遣いにも何かのこだわりがあるのかもしれません。
宮沢俊義の方は、ある時期まで「名誉教授」だったけれども、後にその資格を剥奪された、といった事情は考えにくいので、ま、単なる誤植なんでしょうね。

志賀義雄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E7%BE%A9%E9%9B%84

>筆綾丸さん
>曰く、「余は如何にして信仰に入つたか」
>曰く、「余は如何なる人物を尊敬するか」
これは内村鑑三へのほのめかしではなく、直撃弾ですね。
田中耕太郎は宗教面では一切の妥協をしない強烈な性格なので、田中だけは許せん、と思う人も多かったのでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Ipsedixism vs. Gemeinschaft der Heiligen 2015/10/17(土) 15:00:24
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 彼れは好んで、あらゆる機會にほこらしやかに自分について語る。或いは説教や演説において、或いは感想文において如何に自分が信仰を獲得したかを得々として述べる。その態度は恰も、他人がそれに當然傾聴しなければならぬ義務があり、自己が他人に説教する當然の権威を有することを前提とするもののごとくである。曰く、「余は如何にして信仰に入つたか」、曰く、「余は如何なる人物を尊敬するか」。常に「余」「私」、單數第一人稱で初まるところの、Ipsedixismである。かくして、その「余」は聖パウロや聖アウグスチーヌスや、聖トーマス・アキナスと同列に、否それ以上の地位に高められているのである。(田中耕太郎『信仰と體験』昭和23年、前掲書78頁~)
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http://www-lib.icu.ac.jp/collections/uchimura/uchi_photo/
https://ja.wiktionary.org/wiki/ipse_dixit
以上はプロテスタントへのプロテストの一部ですが、かつての師・内村鑑三を想定しているかのごとくです。国際基督教大学にある旧師のデスマスクなど、邪教のおぞましい Ipsedixism 以外の何物でもない、ということになるのでしょうね。

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 かくして個人の體驗は、他人の體驗によつて補われなければならない。我々が聖人や偉人の傳記を讀むのは、他人の體驗によつて自らの體驗の不足を補うことを意味する。かくして我々の體驗は個人的範圍を超越して全人類とその歴史に擴大されて行く。眞の教會は十二使徒達、聖パウロ、有名無名の諸の聖人達の體驗を集積して我々に遺産として傳えてくれている。それは汲めども決して盡きることのない靈的の泉である。人々は有機的な普遍的社會の肢體となることによつて、他人の體驗を我がものとし、又他人は我が體驗によつて裨益するのである。カトリック教會の信仰箇條中の諸聖人の通効即ち Gemeinschaft der Heiligen という偉大な思想の重要な一つの意義はここにあるのである。(同書88頁)
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プロテスタントとカトリックの相違は、仏教用語で言えば、自力本願と他力本願の相違に似ていて、Gemeinschaft der Heiligen は阿弥陀如来の御座す極楽浄土に似ている、と言えなくもありません。小太郎さんが引用された文にある「花園」や「法の窮極」も、詰まる所、Gemeinschaft der Heiligen の庭園の一部だ、というような感じがしてきますね。

前掲書にある田中耕太郎の年譜に、「大正四年 六月 明治神宮造營局兼内務属」とありますが、内務省における配属先は「明治神宮造營局」だったのですね。

コメント
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