学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

宮沢俊義と「黒い霧」の記憶

2015-10-22 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年10月22日(木)10時12分58秒

読売ジャイアンツ選手の野球賭博関与疑惑にからんで、西鉄ライオンズの「黒い霧」事件に言及する新聞記事をいくつか見ましたが、事件当時のプロ野球コミッショナーは宮沢俊義ですね。
『法学教室』320号(2007年5月)の奥平康弘・高見勝利・石川健治氏による「鼎談 戦後憲法学を語る」において、高見勝利氏(上智大学教授、当時)は次のように語っています。(p7)

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 僕の場合には、1964年ですから東京オリンピックの年に東京に出てきて、中央大学に入りました。憲法の授業は橋本公旦先生でした。【中略】
 教科書的なことで申しますと、僕のときには宮沢先生の『憲法Ⅱ』と、それから清宮先生の『憲法Ⅰ』はすでに揃って出ていました。面白いというか、無知を晒すことになるのですが、僕としては、宮沢先生も憲法学者だったのか、ということを1964年に初めて気がついたという印象です。田舎からぽっと出てきたせいもあるのですけれども、田舎で聞いていた宮沢先生の名前というのは、プロ野球のコミッショナーとしての宮沢俊義で、しかも西鉄ライオンズの池永(正明投手)を追放した血も涙もない法律家というのが僕の頭に入っていた宮沢像だったのです。ある日生協に行って書籍の棚を見ていたら、宮沢先生は憲法の本も書いている、というのが最初に宮沢憲法というものを知った体験でした。【中略】
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これを受けて、石川健治氏が、

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 高見さんは、宮沢俊義研究の第一人者で、法学教室での連載論文をも収めた『宮沢俊義の憲法学史的研究』(有斐閣、2000年)を、宮沢先生の生誕100周年にあわせて上梓しておられるほどなのですが、いまの話はとても面白かったですね。
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と述べます。
ま、他愛ない話なので、私もこのやりとりを初めて読んだときは、ふーん、と思っただけでしたが、改めて読み直してみると、高見氏の記憶には非常に奇妙な点があります。
というのは、「黒い霧」事件は1969年に表面化し、池永選手の処分は翌1970年の出来事ですから、高見氏が1964年の時点で「田舎で聞いていた宮沢先生の名前というのは、プロ野球のコミッショナーとしての宮沢俊義で、しかも西鉄ライオンズの池永(正明投手)を追放した血も涙もない法律家というのが僕の頭に入っていた宮沢像だった」ということはありえません。
高見氏は5・6年後の出来事を組み込んで1964年の思い出を語っている訳で、人間の記憶とは随分いい加減なものですね。

「黒い霧」事件

>筆綾丸さん
>平田神社
リンク先の「猫のあしあと」によれば、境内掲示に「国学の四大人の一人として崇められ、没後に神霊真柱上人という謚名霊神号を賜り、神として祀られました」とあるそうですが、誰から賜ったのだろうと思って検索してみたら、ウィキペディアの平田篤胤の項には「死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている」とありますね。
「神霊真柱上人」と「神霊能真柱大人」ではかなり違いますが、これはウィキペディアが正しいんでしょうね。

>解剖台の上でのミシンとこうもりがさ…
マン・レイに「ミシンと雨傘」という作品があるそうですね。


>プレ・ヘレニズム様式
命名の強引さが面白いですね。
大倉精神文化研究所サイト内に掲載されているあるエッセイによれば、女子美術大学教授・勝又俊雄氏の新説では「クレタ・ミケーネ様式」と呼ぶのが相応しいとか。


>大串兎代夫
名前に「兎」は良いとしても、名字が「大串」なので、組み合わせが微妙ですね。
何となくバーベキュー的な光景を連想してしまいます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
(「したらば掲示板」に移行の際に文字化けしています)

Quelles jolies lames! ーDr.URANO 2015/10/21(水) 14:28:17
https://www.shinchosha.co.jp/book/126011/
『昭和最後の日―テレビ報道は何を伝えたか―』を面白く読みました。
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(昭和62年9月22日)午前七時。渋谷区代々木。執刀にあたることになった森岡恭彦東大教授は、自宅の前にある平田神社に詣でた。江戸時代の国学者、平田篤胤を祭った神社である。(64頁)
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http://www.tesshow.jp/shibuya/shrine_yoyogi_hirata.html
地図を見ると、平田神社は明治神宮の北に位置しているのですね。幽明境を異にする篤胤大人も、そんな大事なこと、明治神宮に行ってくれよ、と思ったかもしれません。

http://pathol.umin.ac.jp/history.shtml
東大病理学教室の浦野順文教授が天皇の患部の病理組織検査を行ったが、
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・・・詰めかけた取材陣に対して浦野教授は、自宅のマンションの扉に一枚の紙を張り出していた。それは、フランス語で書かれたメッセージだった。
??" Dr.URANO est absent. Son Message est suivant.
?? Quelles jolies lames!
?? Elles ne sont pas méchantes.
?? Elles sont gentilles comme notre Empereur."
(ドクター浦野は不在です。彼のメッセージは次のとおりです。なんときれいな標本だろう。それは意地の悪いものではない。それは我々の天皇陛下のようにやさしいものだ)
 その謎めいたメッセージを張り出しまま、教授はこの日も自宅には帰って来なかった。(93頁)
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これは、本人の弁によれば、「腫瘍かないか、悪性であるかないか。迷うような標本ではなかった。そういうことですよ」(94頁)ということで、公表できないが、その意味するところは、ずばり悪性腫瘍であった、と。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%9E%E3%83%B3
新潮文庫には、浦野教授自筆のフランス語の写真が掲載されていますが、若い頃、パストゥール研究所あたりに留学したのだろうな、と思わせます。この時、教授自身、肝臓癌を患っていて、翌年の一月、亡くなったそうです。
天皇の患部の病理組織の標本が天皇のようにやさしい、とはかなりシュールな表現であり、留学中、研究の合間にシュルレアリスムの詩を愛読していたのではないか、とすら思われ、解剖台の上でのミシンとこうもりがさの不意の出会いのように美しい、というロートレアモンの有名な詩句を連想してしまいます。
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 天皇崩御の翌日、故浦野教授宅では身内だけの一周忌がしめやかにおこなわれた。
 浦野教授の作った二十三個の標本は高木侍医長が自宅に保管していたが、百十一日間の闘病を記録した拝診録とともに宮内庁書陵部に移されて永久保存されることになっている。(470頁)
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小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%80%89%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E6%96%87%E5%8C%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%87%8E%E5%AE%87%E5%B9%B3%E6%B2%BB
大倉精神文化研究所の建築はプレ・ヘレニズム様式というようですが、ヘレニズム前の建築様式なんて、本当にわかるのかね、という気もします。設計者の長野宇平治は辰野金吾の弟子ですか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B8%B2%E5%85%8E%E4%BB%A3%E5%A4%AB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%96%BC%E8%8F%9F
国民精神文化研究所の大串兎代夫は、ほんとに兎年(1903年)生まれなんですね。森家のオットーは、菟を含みますが、寅年生まれですね。
コメント (1)
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