投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月22日(木)00時59分0秒
>Akiさん
私もその部分、変だなと思いました。
梅谷文夫氏は少し雑な人ですね。
ちなみに先日の蝉の渓谷訪問時、私は大塩沢も廻ってみました。
谷川沿いの小さな集落ですが、ここを奥に入って行くと黒瀧山不動寺という寺があります。
修験っぽい名前に反して、群馬県には珍しい黄檗宗の寺なのですが、中興開山である潮音道海は「先代旧事本紀大成経事件」で有名な人ですね。
黒瀧山不動寺
先代旧事本紀大成経事件
※Akiさんの下記投稿へのレスです。
南牧村と下仁田町 2010/07/20(火) 02:35:36
御無沙汰しています。『国史大辞典』の市河寛斎の記事で、「上野国甘楽郡南牧村(群馬県甘楽郡下仁田町)に生まれる。」というのは、地理的にもおかしくないでしょうか。
群馬県の甘楽郡あたりの地理はあまり詳しくないのですが、Wikipediaによると、「南牧村」というのは1955年に磐戸村、月形村、尾沢村が合併してできた村で、現在も存在し、下仁田町とは隣接しているものの、南牧村が下仁田町に含まれていたことは無いようです。地元で市河寛斎の生家跡と言われている家は、昔の地名では磐戸村大字大塩沢にあり、ここは現在の南牧村で、下仁田町だったことはありません。ですから、国史大辞典の「上野国甘楽郡南牧村(群馬県甘楽郡下仁田町)」という記述は、地理的にありえないのではないかと思います。
これだけではなんですので、少し長くなりますが、以下に、『群馬県北甘楽郡史』(本多亀三著、昭和3年)から、市河寛斎とその父親の蘭台の記事を抜き書きしておきます。いずれも『上毛人物志』(大正14年)からの転載で、市河寛斎の項は市川寛斎の曾孫の市河三陽氏が書いたものだそうです(これには、市河寛斎については出生地の記事はありません)。
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市河寛斎
寛斎、名は世寧、字は子静、始め山瀬新平と称す。年十五父を喪ふ。兄一英とともに秋元侯に仕へ、刀番・君辺御用・留書方役等を勤め、藩儒河内竹洲・関松窓等に学び、又大内熊耳に学ぶ。二十七歳にして藩を脱し、上野国に赴く。父の遺言により、市川姓を再興せむと欲するなり。即ち祖父の称市川小左衛門を襲ふ。川字後専ら河字を用ふ。下仁田の高橋道斎の家に入り、その養女杉山氏を娶り、且つその蔵書を読む。翌年去って復江戸に出で関松窓によりて、林氏の学に入る。碑に「駄畝に老ゆるを願はず」といふ者是れを指せるなり。三十五歳、松窓の推挙により、聖堂の学頭となる。居ること五年、松窓、時権田沼に出入し、その力をかりて、官儒たらむとす。寛斎頗る之を諫止す。松窓肯かず。田沼失脚するや、松窓林氏より破門せらる。「一儒生の慝を為すを見て、指摘して假さず」といふ者これなり。寛斎亦学頭の職を退きたるも、教授すること旧の如し。続で学制改革あり。学生津軽の士、工藤猶八、上書して得失を論じ、幕府の忌に触れ、その藩主之を拘禁す。寛斎為に書を藩の有司に伝致して救解す。「一友人冤をもつて獄に繋る。奮つて之を救ふ」といふもの是れなり。寛政二年全く罷め去り、翌年、富山の聘に応じて藩黌広徳館の祭酒となり、屢富山侯に祗役す。六十三歳致仕し、以後専ら、文墨考証詩酒徴逐に老を養ふ。史料蒐集のため、上毛に遊び、又、京都奈良に遊び、又、奉行牧野成傑の幕客となりて、長崎に于役す。文政三年七月没。年七十二。本行寺に葬る。文安院寛斎日長居士と諡す。(後略)
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市川蘭台
名は好謙、字は子馨、通称新五兵衛、市川小左衛門の次子なり。元禄十五年甘楽郡磐戸村大字大塩沢に生る。出でて秋元侯藩士山瀬氏を嗣ぎ、使役より大目附、者頭等を経て、用人役となり、宝暦十三年退役して川越城内に移り、同年十二月没す。年六十二。同地妙養寺に葬る。観月院宗禅日定居士と諡す。蘭台書を細井広沢に学び、頗る之を善くす。男一英家を嗣ぐ。二男は即寛斎にして、祖を承け市川氏に復す。女まき土浦藩士山村氏に嫁し、同みえ秋元藩士和田氏に嫁す。寛斎以下は後配鈴木氏の出なり。
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戒名がそれぞれ「日長居士」、「日定居士」と、二人とも「日」が付いているので、宗派は日蓮宗だったようですね。
御無沙汰しています。『国史大辞典』の市河寛斎の記事で、「上野国甘楽郡南牧村(群馬県甘楽郡下仁田町)に生まれる。」というのは、地理的にもおかしくないでしょうか。
群馬県の甘楽郡あたりの地理はあまり詳しくないのですが、Wikipediaによると、「南牧村」というのは1955年に磐戸村、月形村、尾沢村が合併してできた村で、現在も存在し、下仁田町とは隣接しているものの、南牧村が下仁田町に含まれていたことは無いようです。地元で市河寛斎の生家跡と言われている家は、昔の地名では磐戸村大字大塩沢にあり、ここは現在の南牧村で、下仁田町だったことはありません。ですから、国史大辞典の「上野国甘楽郡南牧村(群馬県甘楽郡下仁田町)」という記述は、地理的にありえないのではないかと思います。
これだけではなんですので、少し長くなりますが、以下に、『群馬県北甘楽郡史』(本多亀三著、昭和3年)から、市河寛斎とその父親の蘭台の記事を抜き書きしておきます。いずれも『上毛人物志』(大正14年)からの転載で、市河寛斎の項は市川寛斎の曾孫の市河三陽氏が書いたものだそうです(これには、市河寛斎については出生地の記事はありません)。
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市河寛斎
寛斎、名は世寧、字は子静、始め山瀬新平と称す。年十五父を喪ふ。兄一英とともに秋元侯に仕へ、刀番・君辺御用・留書方役等を勤め、藩儒河内竹洲・関松窓等に学び、又大内熊耳に学ぶ。二十七歳にして藩を脱し、上野国に赴く。父の遺言により、市川姓を再興せむと欲するなり。即ち祖父の称市川小左衛門を襲ふ。川字後専ら河字を用ふ。下仁田の高橋道斎の家に入り、その養女杉山氏を娶り、且つその蔵書を読む。翌年去って復江戸に出で関松窓によりて、林氏の学に入る。碑に「駄畝に老ゆるを願はず」といふ者是れを指せるなり。三十五歳、松窓の推挙により、聖堂の学頭となる。居ること五年、松窓、時権田沼に出入し、その力をかりて、官儒たらむとす。寛斎頗る之を諫止す。松窓肯かず。田沼失脚するや、松窓林氏より破門せらる。「一儒生の慝を為すを見て、指摘して假さず」といふ者これなり。寛斎亦学頭の職を退きたるも、教授すること旧の如し。続で学制改革あり。学生津軽の士、工藤猶八、上書して得失を論じ、幕府の忌に触れ、その藩主之を拘禁す。寛斎為に書を藩の有司に伝致して救解す。「一友人冤をもつて獄に繋る。奮つて之を救ふ」といふもの是れなり。寛政二年全く罷め去り、翌年、富山の聘に応じて藩黌広徳館の祭酒となり、屢富山侯に祗役す。六十三歳致仕し、以後専ら、文墨考証詩酒徴逐に老を養ふ。史料蒐集のため、上毛に遊び、又、京都奈良に遊び、又、奉行牧野成傑の幕客となりて、長崎に于役す。文政三年七月没。年七十二。本行寺に葬る。文安院寛斎日長居士と諡す。(後略)
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市川蘭台
名は好謙、字は子馨、通称新五兵衛、市川小左衛門の次子なり。元禄十五年甘楽郡磐戸村大字大塩沢に生る。出でて秋元侯藩士山瀬氏を嗣ぎ、使役より大目附、者頭等を経て、用人役となり、宝暦十三年退役して川越城内に移り、同年十二月没す。年六十二。同地妙養寺に葬る。観月院宗禅日定居士と諡す。蘭台書を細井広沢に学び、頗る之を善くす。男一英家を嗣ぐ。二男は即寛斎にして、祖を承け市川氏に復す。女まき土浦藩士山村氏に嫁し、同みえ秋元藩士和田氏に嫁す。寛斎以下は後配鈴木氏の出なり。
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戒名がそれぞれ「日長居士」、「日定居士」と、二人とも「日」が付いているので、宗派は日蓮宗だったようですね。
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