学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

東尋坊と平泉寺

2010-07-24 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月24日(土)14時50分8秒

東尋坊の由来について、例えば『るるぶ情報版 福井』には「ある悪僧の名前なんです。暴君で、他の僧たちを困らせていた東尋坊は、恋のライバルであった僧侶らと岸壁で酒盛りをしていたときに、崖から突き落とされました。その後、49日間、海が大荒れしたことでここを東尋坊と呼ぶようになったのです。」てなことが書いてありますね。
『福井県の地名』(平凡社、1980)によると、『帰鴈記』なる書物に次のようにあるそうです。

----------
断崖聳へて屏風を立たるが如し。池深さ五丈余、巌の高さ七丈余、口の広さ八間、奥へ二十二間有とぞ。蚫さゞゐなどの貝多く、かつきの海士常に是をとる。むかし平泉寺に東尋坊といへる悪僧の有けるを、一山の衆徒にくみ猜みけれども、弁才強力のものなりければ、いかにとも斗ひ可申業もなくてうち過ぎけるが、或時衆徒等かの僧をいざなひ、池の辺りにて宴をもふけ、東尋坊を酔しめ、此池へ突落しけるに、顛倒のいとまに其僧と脇に居たりし児とを左右に取りて、ともに池に入て死しけるが、悪霊忽ち風雨をおこし雷と成り、あまたの人を殺せしとかや。猶あきたらずや、卯月五日平泉寺の神事の日、今もなほ暴風甚雨して、渡海の舟をわづらはしむ。浦の海士人も此日は沖へ船を出さず、
----------

この『帰鴈記』は越前の地誌で、『福井県史通史編』によると、

----------
 藩の組織のもと、公的に編纂されたもの以外にも、越前では多くの地誌が編集されている。そのうち、最も早く成立したのは「越前鹿子」で編者は不明であるが、寛文から延宝年間(一六七三~八一)にまとめられたものと推定されている。越前の古社・名所・河川・街道などについて略記してあり、多種の写本が伝来している。
 続いて福井藩の右筆などを勤めた松波伝蔵正有の手で、越前国内の名所・城跡・古社寺や山川などについて記録した「帰鴈記」が執筆されている。諸写本の奥書によると、正徳二年(一七一二)に一応の稿本が完成していたのを、史跡調査に関心の高かった八代の吉邦の命によって補訂し、享保年間に至って藩へ提出したもののようである。

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-5-01-03-03-03.htm

とのことです。
ここから深い考察をめざす、というようなつもりは全然なくて、ふーん、と思っただけですが。

東尋坊
http://okuromieai.blog24.fc2.com/blog-entry-1787.html
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「博士先生」 | トップ | 過言のスターマイン  »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

新潟生活」カテゴリの最新記事