学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

平泉寺墓地

2010-07-20 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月20日(火)02時06分24秒

墓地内にあった案内板には次のように書かれていました。

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平泉寺墓地
 この区域は、平泉寺の僧侶たちを供養した室町時代末期の石仏、五輪塔、宝篋印塔の類が数多くある極めて重要な史跡である。
 年代のわかるものでは、永正十二年(一五一五年)が最も古く、地輪に「為盛幸大姉、永正十二年■五月廿八日」と刻されている。永正からあと、大永、享禄、天文、弘治、永禄とつづく。しかも残念ながら、これらは風化、破損がひどく完成品が少ない。
 昭和五十年度の石仏調査によると、五六二体確認している。また、県下で有名な一乗谷の石仏群は、大半が俗人のものであるのに対し、ここは僧侶のものが多いというよい対象(ママ)を示している。
 この墓地は、大正三年、平泉地区民が区画整理によって造成し、同時にそれまで四ヶ所に分かれていた墓地を統合したもので、今日まで区民の手によってよく管理されてきた。
                    勝山市
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写真はかなりの枚数を撮ったのですが、携帯なので、あまり画質は良くないですね。
とりあえず墓地の雰囲気を紹介するために、いくつか載せておきます。
大正三年に「区画整理によって造成」したものですから、中世が直に残っている訳ではないのですが、それでも独特の趣がありますね。
さて、私が広大な墓地内を歩き回っていると、農家のおじさん風の人が現れて、「あんたはこの墓地に縁がある人かね」と聞くので、全然関係ないけれども中世の石塔に興味がある旨を話すと、石仏泥棒の疑いは一応解いてくれたようでした。
ついでに平泉澄氏のお墓はどこかと聞くと、「わしは知らんねー。あの人は特別だから、葬式も変ったやり方だったそうで、村の人でもあんまり知らん。公民館へ行けば分かるかもしれん」(方言の再現不正確)てな返事でした。
多分、神葬祭のことなんだろうなと思いましたが、その種のことに興味がありそうな人ではなかったので、詳しくは聞きませんでした。
社務所で会った女性も、墓地に行くまでが分かりにくい上に、平泉澄氏のお墓は非常に分かりにくい場所にあると言われていたので、探すのはあっさり諦めて、東尋坊に向かうことにしました。
名勝東尋坊の名前は平泉寺の悪僧に由来するそうで、鳥居近くには「東尋坊跡」の小さな石碑もありました。

>職人太郎さん
平泉寺まで行けば職人太郎さんの本拠地も直ぐ近くですね。
次は若狭あたりと思っていましたが、近江もいいですね。

※写真

 ※職人太郎さんの下記投稿へのレスです。

平泉寺 2010/07/19(月) 10:21:54
あのあたりは、中公新書『屋根の日本史』の149頁以降にも書きましたように、仕事で頻繁に訪れています。たぶん、小太郎さんが会われた平泉澄氏のお孫さんは、私も存じている方だと思います。とにかく、いくら本を読んでも、現場に行かないとわからないことはいっぱいありますね。

吉川弘文館の「歴史文化ライブラリー」は私も上梓していますが、ネット上でも随分叩かれました(笑) 反論するなら論拠くらい示してほしいものですが、ネットウヨ・サヨの人々には、そういうことより感情的に反発してきますので厄介です。
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