学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「債務者と債権者の共存」

2010-07-30 | 井原今朝男『中世の借金事情』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月30日(金)01時51分43秒

前の投稿で「一冊の本や論文の核心ではない部分の誤りを見つけて鬼の首を取ったように騒ぐ」と書いたので、私が「おおやにき」の井原今朝男氏に対する批判を「核心ではない部分の誤り」の指摘にすぎないと評価したように思われた方がいるかもしれません。
しかし、井原氏は『中世の借金事情』を、中世社会はこうだったという昔話としてではなく、「二一世紀将来への提言」として書かれているので、井原氏の現代社会分析に対する大屋氏の批判は核心部分についての批判になりますね。
大変紛らわしい書き方で失礼しました。
職人太郎さんからレスをもらわなければ書き直していたのですが、そのままにしておきます。
さて、最初に井原氏の「二一世紀将来への提言」のエッセンスを少し紹介しておきます。(p217以下)

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 本書を通じて、債務返済の処理方法にも歴史的変遷があることが理解してもらえたであろう。債権は、過去においても現在においても将来においても、債務者と債権者が共存してこそ権利行使ができる人類固有の権利である。そこからみると、私有財産制と自由契約を絶対として、債権者の権利のみを優越させ、債務者の権利を無視し破産に追い込む近代債権論の世界は、きわめて歪(いびつ)な歴史的段階に入り込んでいることが理解できる。債務者が破産すれば、債権者はその権利を行使できず、社会的浪費となって社会的富が消えていく。現代人はその矛盾を克服する新しい原理を見出していない。
(中略)
 債務返済の紛争処理は相対で双方が合意できればどうにでもなる世界であった。利子率が無制限であっても、利子の総額をきめて利息の増殖を禁止すれば、債務者も債権者も共存して、債務と返済の循環がスムーズに進展する方法を中世人は知っていた。したがって、二一世紀の将来の世界が、債務者と債権者の両方の権利が共存しあえる新しい原理を社会意識としてもちえるようになれば、諸矛盾の渦巻く現代社会の流れを新しいものにつくりかえることができる。二一世紀の将来の世界は債務者と債権者が互いに破産することなく共存しあう原理の中で行き抜くことが必要である。
 それならば、利息の無限増殖の原理を放棄すればよい。かわって利息の利息の増殖を一定額で抑制しあい、債権者と健全な債務者が共存して債務と返済の循環をスムーズに展開できる経済原理をみんなの社会正義にすればよい。一五世紀の中世の人々が暴力を紛争解決の手段とすることを放棄しはじめ、債権者の権利保護をみとめ共存の道を歩みだし、社会正義の流れを転換しえたのであるから、二一世紀の人類にもそれができないはずはない。すでに、現実の世界では、利息の取得を禁止しているイスラムの法世界の中でスクークという新しい投資運用型の債券が発行され、イスラム金融市場が世界的に拡大している(前田匡史『詳解イスラム金融』亜紀書房、二〇〇八)。利息が無限に増殖する世界が絶対ではないことを少数とはいえ世界の人民が知りはじめている。
 地球環境・資源の有限性の中で、二一世紀の人類社会は債務者と債権者の権利保護を両立した循環型再生産経済原理を必要としている。債権は健全なる債務者が存在してこそ、債権者が権利行使できる。利害対立者が共存しあう原理こそが社会正義であるとする社会意識が形成されたとき、人類はあたらしい債務処理の方法をつくりだすにちがいない。
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わずかこれだけの文章の中に、債務者と債権者が「共存」すべきだという主張が6回も繰り返されますが、債務者と債権者の「共存」って、具体的にどういうことなんですかね。
単に「破産」がないというだけなら、そんなに望ましいことなのか。
ま、大屋氏も指摘されているように、井原氏は破産という制度自体を理解していないようなのですが、その点は後で書きます。

>筆綾丸さん
平泉須賀波氏に関連して『夜明け前』にもちょっと触れるつもりだったので、ドキッとしました。
新稲法子氏は「漢文のたのしみ」というサイトを運営されていますね。
「さすらいの漢文講師、新稲法子のしょぼいサイトです。」と書かれていて、けっこう面白い人ですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

中川寛斎 2010/07/29(木) 19:42:09
小太郎さん
久しぶりに島崎藤村の『夜明け前』を眺めてみたのですが、中津川の医師で平田派の国学者中川寛斎という人が登場します。市河寛斎のパロディとは思えぬのですが、名が似ているので、気になりました。

揖斐高『遊人の抒情』に、絶句「木母寺」に関する揖斐氏の解釈(181頁)と、高蟾「対春風」に関する如亭の解釈(173頁)がありますが、素晴らしいものですね。しびれます。
黄昏の少将とかいう人(松平定信)が、どうでもいいような改革の旗を振ってたときに、大田南畝、喜多川歌麿、柏木如亭・・・と、羨ましくなるような才能がよく出たものだ、とつくづく思いますね。

「(駿河)島田の桑原家に寄寓していた十月末頃、如亭ははからずも市河寛斎と邂逅した。如亭が西遊に旅立った文化四年(一八〇七)以来、七年ぶりの対面である。文化六年春、京都に遊んだ寛斎が、如亭を京都町奉行牧野成傑に引き合わせようとしたものの、如亭がその約束を反故にして寛斎を困惑させ、牧野成傑を立腹させたことについては、すでに述べた。寛斎は文化十年、その牧野成傑が長崎奉行に赴任するのに随行して今回は長崎に遊び、一年近く滞在の後、この文化十一年の九月二十二日に長崎を発ち、江戸への帰途についていたのである。
寛斎は江戸への帰路の途中、如亭との邂逅に先立つ十月初め頃に、備後神辺に菅茶山を訪うた。この時、茶山は江戸に赴いていて留守だったため、寛斎は茶山と会うことはできなかったが、折から来合わせていら頼山陽と対面することになった。山陽はこの時の寛斎との対話を、『如亭山人遺藁』の序文に次のように記している。
 往年、河翁(市河寛斎)長崎より帰る。余、之と備後に邂逅す。翁、余に如山人(如亭) の何に在るかを問ふ。余悉かにその漂泊屢夢空の状を説く。河翁愴然として之を招 きて東帰の意有り。
山陽から如亭困窮の様子を聞いた寛斎は、如亭を一緒に江戸へ連れて帰りたいと思ったようだった、と言うのである。それから一月足らずの後、寛斎は島田宿で如亭と出会った。おそらく、この時寛斎は一緒に江戸へ帰るように如亭に強く勧めたに違いない。しかし、如亭は寛斎と一緒には江戸へ帰らなかった」(同書235頁~)

かつての江湖詩社の師匠と弟子の間には埋めがたい溝ができていたようですね。

『遊人の抒情』のあとがきに次のようにありますが、新稲法子さんは執念の人ですね。妙齢の女性に捜し当てられ以て瞑すべしですね。京都に行く機会があれば、永観堂を訪ねてみます。

「柏木如亭は、かつてはごく一部の愛好者以外にはほとんど知られることのない、忘れられた詩人だった。しかし、近年ようやく評価の気運も見られるようになってきている。たとえば、いつの間にか崩れ落ちて土中に埋もれていた東山永観堂の如亭墓碑が、十数年前に大阪大学の大学院生だった新稲法子さんによって発見された。新稲さんは指導教授の黒川洋一氏に報告し、黒川氏はその顛末を雑誌『文学』の昭和六十二年五月号に「柏木如亭の墓」と題して紹介された。そしてこれが機縁となり、京都の日本文化研究会の方々によって、平成十年に墓碑の再興が実現されたことなどは、この間の如亭顕彰の大きな出来事の一つだったと言えよう」(335頁)
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