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平泉寺白山神社、別当と宮司

2010-07-29 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月29日(木)00時30分26秒

今日は井原今朝男氏の『中世の借金事情』について書こうと思ったのですが、帰宅すると国会図書館に注文していた白洲正子氏「かくれ里(二十一)」(『芸術新潮』1970年9月号)の複写が来ていたので、冒頭部分を少し紹介してみます。

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 去年の秋、越前へ取材に行った時、友達から、平泉寺にはぜひ行って来い、参道がいいし、苔も美しい。京都の苔寺の比ではない、とすすめられた。
 私は取材に行っても、いつも道草ばかり食う。編集者さんも心得ていて、快くつき合ってくれる。仕事はそこそこにして、平泉寺に向かったのは、雨上がりの気持ちのいい朝であった。
(中略)
 この寺は、勝山市の郊外にある。福井から九頭竜川を東にさかのぼると、三十分あまりで勝山に着く。途中、永平寺に立ちよったが、あまりの人込みに、早々にして退散した。こういう寺はいいにきまっているが、雪の時期でもないと、ゆっくりお参りすることはできないのかも知れない。
(中略)
 石段を登った左手に、平泉さんのお住居がある。平泉家は、桃山時代からつづいた平泉寺の別当で、帝大教授をしていられた平泉澄氏は、たしか二十四代目に当られる。その一族の方を私はちょっと存じあげているので、案内書と絵葉書を頂きかたがた、御挨拶によってみると、品のいい若奥様が出て来られた。伺ってみると、御長男の夫人とかで、絵葉書を頂いた後、邸内のお庭を見せて頂く。この庭は、室町時代に造られたもので、奥様がいわれるように、人手が少ないため少し荒れているが、十何種類もあるという苔の緑は、目がさめるように鮮やかである。
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白洲正子氏は1969年に初めて平泉寺を訪問されているので、この「品のいい若奥様」は1980年に司馬遼太郎氏が会われた「品のいい娘さん」とは別人でしょうね。
というか、この方は平泉洸氏(金沢工業大学名誉教授、白山神社第四代宮司)の夫人ですね。
「平泉家は、桃山時代からつづいた平泉寺の別当で、帝大教授をしていられた平泉澄氏は、たしか二十四代目」というのは白洲氏の誤解で、別当の時代は世襲ではないですね。
天正二年(1574)、平泉寺は一向一揆に襲撃されて全山残らず灰燼に帰し、天正十一年(1583)、顕海僧正が再興する訳ですが、再興後はその住坊賢聖院(玄成院)が平泉寺の本坊として一山を統括します。
そして顕海僧正以降、明治維新まで、玄成院主は二十一代を数えますが、このうち第三代までは比叡山延暦寺に属し、第四代以降は東叡山寛永寺の直末になります。
そして、歴代の出自を『白山神社史』p195以下から引用してみると、

第11世 慈宏 福井藩士一柳家
第12世 実運 盛岡藩士高橋家
第13世 ※竟 大納言清水谷実栄の猶子(※「至」+「秦」)
第14世 深玄 伊勢国安濃生まれ
第16世 照州 近江国志賀生まれ
第17世 善海 武蔵国豊島郡の佐竹義貫の子
第18世 義順 武蔵国下谷の佐藤家
第19世 義隆 下総国土浦の飯島家
第20世 義敬 下野国宇都宮の佐野甚左衛門家
第21世 義章(平泉須賀波) 幕臣太田家

となっています。
他の人の出自は『白山神社史』には出ていませんが、任命は延暦寺・寛永寺の法縁によるものであって、世襲ではないですね。
そして幕臣太田家出身の義章が神仏分離令を受けて明治3年、還俗して平泉須賀波(ひらいづみすがは)と改名して神官(宮司)となります。
この人は明治3年に「急逝」し、平泉操宮司(勝山神明神社神官。もと勝山神宮寺住職で、義章僧都の門人)が相続して第二代宮司になり、その長男が平泉澄氏、という関係ですね。
別当21代と宮司3代を単純に合計すれば24代にはなりますが、白洲氏の表現は不正確、というか誤りですね。

>筆綾丸さん
近世は筆綾丸さんに全くついて行けませんが、揖斐高氏の『江戸詩人選集第五巻 市河寛斎・大窪詩仏』を入手して、少しずつ読んでいるところです。
この二人の感覚は完全に近代人ですね。
コメント
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