投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月22日(木)01時39分9秒
>筆綾丸さん
近所の図書館で『街道をゆく』十八(昭和57年、朝日新聞社)を見たら、司馬遼太郎は平泉寺白山神社の苔を絶賛し、「京都の苔寺の苔など、この境内にひろがる苔の規模と質からみれば、笑止なほどであった」(p172)とまで言っていますね。
同書には次のような記述もあります。(p178以下)
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ゆるい勾配ながら、石段が組まれている。
石をできるだけ自然のまるさのまま畳んだ石段で、両側を杉その他の木立が縁取っている。
春の雨の日など、終日ここで雨見をしていても倦きないのではないかと思われた。
「以前、ここを登ってゆきますと、左手に白木の材をたくましく組みあげて、ごく古寂びた屋敷がありました」
と、須田画伯に話した。
私の記憶のなかでは、鎌倉時代の武家の館というのはこうであったかという印象として残っている。
鎌倉時代の武家の館を想像する手がかりは、私のなかでは、この平泉寺で見た白木の屋敷と、大和の吉野山の蔵王堂の僧坊である吉水院があるだけである。
(中略)
往くうちに、左側にその建物が出てきた。
門に、
「白山神社々務所」
という大きな標札が出ており、小さな文字で「元北国白山平泉寺本坊」と書かれている。もとの玄成院である。門柱に小さく「平泉」という表札も出ていた。
べつに入門を禁じている様子もなかったので入ってみると、屋敷の横に簡素な柵がしつらえてあって、そのむこうに庭園があるようだった。
柵の柱に、古びた紙が二枚ぶらさがっている。
拝観御希望の御方は必ず御申込み下さい
とある。今一枚の紙には、単に、
「庭」
と書かれていて、その下に説明がある。
四百五十年前、細川武蔵守高国の作。国の名勝に指定。ツマリ国宝デス。拝観料五十円。
拝観料五十円というのも時勢ばなれした安さだが「必ず御申込み下さい」とありながら、それを徴収するボックスのようなものもない。もともと、用心のために申し出よといっているだけで、それをもって金儲けをしようという気持がまったくないのであろう。
結局、屋敷の一隅に立って声を出しつづけているうちに、品のいい娘さんが出てきて、拝観料をうけとってくれた。
庭に入ると、一面の苔である。
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司馬氏が訪問したのは昭和55年10月、ちょうど30年前ですが、その時点で「時勢ばなれした安さ」だった拝観料は、現在もそのままでした。
ところで、前の投稿で私は「有名神社の社務所としてはお世辞にも立派とは言えない地味な建物」と書いてしまいましたが、これはさすがに言いすぎでした。
建物は二百年以上前の建築で、文化財といってもよい立派なものですね。
ただ、二階建ての仏教建築なので、司馬氏の「鎌倉時代の武家の館」という感想も、ちょっと変な感じがします。
※写真
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
しばらく前の本ですが、藤木久志氏『城と隠物の戦国誌』を読みました。
ドイツ中世史の「ブルクバン Burgbann 」という用語から日本の戦国期の城郭へと入ってゆくところなど、面白いですね。
天正五年(一五七七)五月のことであった。
ナラ中ネコ・ニワトリ、安土ヨリ取ニ来トテ、僧坊中へ、方々隠了、タカノエノ用、云々、
そっけない原文が面白い。
安土城にいる織田信長の指示で、(彼の配下が)奈良中のネコ・ニワトリを集めに来るらしい。その噂が広まると、町中の人びとは興福寺の僧坊の至るところへ、ネコ・ニワトリを隠しに来た。鷹狩り好きな信長が、飼っている鷹の餌にするのだと、もっぱらの噂だ、という(『多聞院日記』)。寺は、町中から数多くのネコやニワトリを持ち込まれ、それを預かっていたらしい。
また、これも信長がらみの話である。元亀元年(一五七〇)十一月、信長の家臣とみられる二人が、安土城にもほど近い近江蒲生郡長命寺(滋賀県近江八幡市長命寺町)に宛てて、預物の指示をしていた。この寺は琵琶湖の東畔に突き出した奥島山塊の中腹にあって、門前の港湾集落を通じて、琵琶湖の湖港(湖上流通)をも握っていた大寺であった。
信長方の指示は、こうである。
その方へ預ヶ申し候、米十石、西川三郎左衛門二郎方へ、御うたがいなく、お渡しある
べく候、その方の預かり状は、尾張にござ候あいだ、まいらせず候、もし何方より出し
候とも、反古たるべく候、
安土城に君臨する天下の覇者・織田信長もまた、近くの長命寺に、米十〇石を預けて「預かり状」を受け取っていた。その米を西川三郎左衛門に渡して欲しい、というのであった。西川は信長のご用の米商人でもあったか。
ただし「預かり状」は本拠地の尾張(愛知県)に置いてあるので、いまは渡せない。もし後で「預かり状」をもって、米を請求する者がきても、その証文は反古(無効)とみなせ、とも付記していた。証文なしで渡せという、強引な取り引きぶりが印象的である。天下取りを目ざす信長までも包み込んだ、預物習俗の大きな広がりが、まざまざと見えてくる(同書217頁~)。
鬼の首ではありませんが、安土城に君臨する天下の覇者・織田信長、本拠地の尾張、天下取りを目ざす信長、という文は、時系列的に矛盾します。天正四年(一五七六)から安土の築城は始まったということを、きちんと踏まえていないから、こんな文になってしまうのですね。