学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「博士先生」

2010-07-22 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月22日(木)23時42分36秒

>筆綾丸さん
その人か、あるいはごく近いご親戚なんでしょうね。
平泉寺にはまた行くつもりなので、その時に聞いてみます。
平泉澄氏は司馬氏が泊った旅館、「板甚」の女将の言葉の中に登場しますね。(p116)

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 その後、雪の話が出た。
「博士先生が」
 と、女将がいった。そのような敬称でよばれている学者が土地にいるらしかった。
「昔、東京帝大の学生でいらっしゃったとき、冬休みで帰って来られると、たいていはこの宿に泊まって、雪のやむのを待たれたときいております」
「その博士先生という方の在所は、どこですか」
「平泉寺(白山神社)でございます」
 という。私どもは、あす平泉寺に行って苔を見たいと思っている。この勝山からはタクシーに乗ってわずか十数分の距離である。
 話をきいているうちに、その人は、戦前、皇国史観の学者として著名だった平泉澄博士であることがおぼろげにわかってきた。平泉寺は、明治の神仏分離で神社になった。平泉家はその白山神社の社家で、博士はいまも健在であるという。
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※写真

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

She is not what she was. 2010/07/22(木) 19:39:22
小太郎さん
小太郎さんが「あわわ」とあわてた女性は、司馬遼太郎の云う「品のいい娘さん」の、
三十年後の姿でしょうか。
司馬遼太郎は、あの紀行文の中で、平泉澄氏には全く言及していなかったように覚えて
います(記憶違いかもしれませんが)。
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拝観料五十円

2010-07-22 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月22日(木)01時39分9秒

>筆綾丸さん
近所の図書館で『街道をゆく』十八(昭和57年、朝日新聞社)を見たら、司馬遼太郎は平泉寺白山神社の苔を絶賛し、「京都の苔寺の苔など、この境内にひろがる苔の規模と質からみれば、笑止なほどであった」(p172)とまで言っていますね。
同書には次のような記述もあります。(p178以下)

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 ゆるい勾配ながら、石段が組まれている。
 石をできるだけ自然のまるさのまま畳んだ石段で、両側を杉その他の木立が縁取っている。
 春の雨の日など、終日ここで雨見をしていても倦きないのではないかと思われた。
「以前、ここを登ってゆきますと、左手に白木の材をたくましく組みあげて、ごく古寂びた屋敷がありました」
 と、須田画伯に話した。
 私の記憶のなかでは、鎌倉時代の武家の館というのはこうであったかという印象として残っている。
 鎌倉時代の武家の館を想像する手がかりは、私のなかでは、この平泉寺で見た白木の屋敷と、大和の吉野山の蔵王堂の僧坊である吉水院があるだけである。
(中略)
 往くうちに、左側にその建物が出てきた。
 門に、
「白山神社々務所」
 という大きな標札が出ており、小さな文字で「元北国白山平泉寺本坊」と書かれている。もとの玄成院である。門柱に小さく「平泉」という表札も出ていた。
 べつに入門を禁じている様子もなかったので入ってみると、屋敷の横に簡素な柵がしつらえてあって、そのむこうに庭園があるようだった。
 柵の柱に、古びた紙が二枚ぶらさがっている。

 拝観御希望の御方は必ず御申込み下さい

 とある。今一枚の紙には、単に、
「庭」
 と書かれていて、その下に説明がある。

 四百五十年前、細川武蔵守高国の作。国の名勝に指定。ツマリ国宝デス。拝観料五十円。

 拝観料五十円というのも時勢ばなれした安さだが「必ず御申込み下さい」とありながら、それを徴収するボックスのようなものもない。もともと、用心のために申し出よといっているだけで、それをもって金儲けをしようという気持がまったくないのであろう。
 結局、屋敷の一隅に立って声を出しつづけているうちに、品のいい娘さんが出てきて、拝観料をうけとってくれた。
 庭に入ると、一面の苔である。
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司馬氏が訪問したのは昭和55年10月、ちょうど30年前ですが、その時点で「時勢ばなれした安さ」だった拝観料は、現在もそのままでした。
ところで、前の投稿で私は「有名神社の社務所としてはお世辞にも立派とは言えない地味な建物」と書いてしまいましたが、これはさすがに言いすぎでした。
建物は二百年以上前の建築で、文化財といってもよい立派なものですね。
ただ、二階建ての仏教建築なので、司馬氏の「鎌倉時代の武家の館」という感想も、ちょっと変な感じがします。

※写真

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

猫追物 2010/07/20(火) 18:23:17
小太郎さん
平泉寺の苔は、是非、見たいと思っています。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4022599618_1.html

しばらく前の本ですが、藤木久志氏『城と隠物の戦国誌』を読みました。
ドイツ中世史の「ブルクバン Burgbann 」という用語から日本の戦国期の城郭へと入ってゆくところなど、面白いですね。

 天正五年(一五七七)五月のことであった。
 ナラ中ネコ・ニワトリ、安土ヨリ取ニ来トテ、僧坊中へ、方々隠了、タカノエノ用、云々、
そっけない原文が面白い。
安土城にいる織田信長の指示で、(彼の配下が)奈良中のネコ・ニワトリを集めに来るらしい。その噂が広まると、町中の人びとは興福寺の僧坊の至るところへ、ネコ・ニワトリを隠しに来た。鷹狩り好きな信長が、飼っている鷹の餌にするのだと、もっぱらの噂だ、という(『多聞院日記』)。寺は、町中から数多くのネコやニワトリを持ち込まれ、それを預かっていたらしい。
また、これも信長がらみの話である。元亀元年(一五七〇)十一月、信長の家臣とみられる二人が、安土城にもほど近い近江蒲生郡長命寺(滋賀県近江八幡市長命寺町)に宛てて、預物の指示をしていた。この寺は琵琶湖の東畔に突き出した奥島山塊の中腹にあって、門前の港湾集落を通じて、琵琶湖の湖港(湖上流通)をも握っていた大寺であった。
信長方の指示は、こうである。
 その方へ預ヶ申し候、米十石、西川三郎左衛門二郎方へ、御うたがいなく、お渡しある
 べく候、その方の預かり状は、尾張にござ候あいだ、まいらせず候、もし何方より出し
 候とも、反古たるべく候、
安土城に君臨する天下の覇者・織田信長もまた、近くの長命寺に、米十〇石を預けて「預かり状」を受け取っていた。その米を西川三郎左衛門に渡して欲しい、というのであった。西川は信長のご用の米商人でもあったか。
ただし「預かり状」は本拠地の尾張(愛知県)に置いてあるので、いまは渡せない。もし後で「預かり状」をもって、米を請求する者がきても、その証文は反古(無効)とみなせ、とも付記していた。証文なしで渡せという、強引な取り引きぶりが印象的である。天下取りを目ざす信長までも包み込んだ、預物習俗の大きな広がりが、まざまざと見えてくる(同書217頁~)。

鬼の首ではありませんが、安土城に君臨する天下の覇者・織田信長、本拠地の尾張、天下取りを目ざす信長、という文は、時系列的に矛盾します。天正四年(一五七六)から安土の築城は始まったということを、きちんと踏まえていないから、こんな文になってしまうのですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%91%B3%E7%B7%9A
『徒然草』に犬の足の話がありますが、猫の足も鷹の餌になりえたのですね。奈良中の猫はおそらく飢饉時の非常食としての飼猫で、鷹などにやれるか、という意味があるのでしょうね(三味線用の猫ではあるまい)。それはともかく、猫が鷹の餌として出てくる話、はじめて知りました。
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黒瀧山不動寺

2010-07-22 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月22日(木)00時59分0秒

>Akiさん
私もその部分、変だなと思いました。
梅谷文夫氏は少し雑な人ですね。
ちなみに先日の蝉の渓谷訪問時、私は大塩沢も廻ってみました。
谷川沿いの小さな集落ですが、ここを奥に入って行くと黒瀧山不動寺という寺があります。
修験っぽい名前に反して、群馬県には珍しい黄檗宗の寺なのですが、中興開山である潮音道海は「先代旧事本紀大成経事件」で有名な人ですね。

黒瀧山不動寺

先代旧事本紀大成経事件

※Akiさんの下記投稿へのレスです。

南牧村と下仁田町 2010/07/20(火) 02:35:36
御無沙汰しています。『国史大辞典』の市河寛斎の記事で、「上野国甘楽郡南牧村(群馬県甘楽郡下仁田町)に生まれる。」というのは、地理的にもおかしくないでしょうか。

群馬県の甘楽郡あたりの地理はあまり詳しくないのですが、Wikipediaによると、「南牧村」というのは1955年に磐戸村、月形村、尾沢村が合併してできた村で、現在も存在し、下仁田町とは隣接しているものの、南牧村が下仁田町に含まれていたことは無いようです。地元で市河寛斎の生家跡と言われている家は、昔の地名では磐戸村大字大塩沢にあり、ここは現在の南牧村で、下仁田町だったことはありません。ですから、国史大辞典の「上野国甘楽郡南牧村(群馬県甘楽郡下仁田町)」という記述は、地理的にありえないのではないかと思います。

これだけではなんですので、少し長くなりますが、以下に、『群馬県北甘楽郡史』(本多亀三著、昭和3年)から、市河寛斎とその父親の蘭台の記事を抜き書きしておきます。いずれも『上毛人物志』(大正14年)からの転載で、市河寛斎の項は市川寛斎の曾孫の市河三陽氏が書いたものだそうです(これには、市河寛斎については出生地の記事はありません)。

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市河寛斎

寛斎、名は世寧、字は子静、始め山瀬新平と称す。年十五父を喪ふ。兄一英とともに秋元侯に仕へ、刀番・君辺御用・留書方役等を勤め、藩儒河内竹洲・関松窓等に学び、又大内熊耳に学ぶ。二十七歳にして藩を脱し、上野国に赴く。父の遺言により、市川姓を再興せむと欲するなり。即ち祖父の称市川小左衛門を襲ふ。川字後専ら河字を用ふ。下仁田の高橋道斎の家に入り、その養女杉山氏を娶り、且つその蔵書を読む。翌年去って復江戸に出で関松窓によりて、林氏の学に入る。碑に「駄畝に老ゆるを願はず」といふ者是れを指せるなり。三十五歳、松窓の推挙により、聖堂の学頭となる。居ること五年、松窓、時権田沼に出入し、その力をかりて、官儒たらむとす。寛斎頗る之を諫止す。松窓肯かず。田沼失脚するや、松窓林氏より破門せらる。「一儒生の慝を為すを見て、指摘して假さず」といふ者これなり。寛斎亦学頭の職を退きたるも、教授すること旧の如し。続で学制改革あり。学生津軽の士、工藤猶八、上書して得失を論じ、幕府の忌に触れ、その藩主之を拘禁す。寛斎為に書を藩の有司に伝致して救解す。「一友人冤をもつて獄に繋る。奮つて之を救ふ」といふもの是れなり。寛政二年全く罷め去り、翌年、富山の聘に応じて藩黌広徳館の祭酒となり、屢富山侯に祗役す。六十三歳致仕し、以後専ら、文墨考証詩酒徴逐に老を養ふ。史料蒐集のため、上毛に遊び、又、京都奈良に遊び、又、奉行牧野成傑の幕客となりて、長崎に于役す。文政三年七月没。年七十二。本行寺に葬る。文安院寛斎日長居士と諡す。(後略)
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市川蘭台

名は好謙、字は子馨、通称新五兵衛、市川小左衛門の次子なり。元禄十五年甘楽郡磐戸村大字大塩沢に生る。出でて秋元侯藩士山瀬氏を嗣ぎ、使役より大目附、者頭等を経て、用人役となり、宝暦十三年退役して川越城内に移り、同年十二月没す。年六十二。同地妙養寺に葬る。観月院宗禅日定居士と諡す。蘭台書を細井広沢に学び、頗る之を善くす。男一英家を嗣ぐ。二男は即寛斎にして、祖を承け市川氏に復す。女まき土浦藩士山村氏に嫁し、同みえ秋元藩士和田氏に嫁す。寛斎以下は後配鈴木氏の出なり。
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戒名がそれぞれ「日長居士」、「日定居士」と、二人とも「日」が付いているので、宗派は日蓮宗だったようですね。
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