学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「編集者は学者ではない。著書内容の文献として挙げられている文書までチェックせよ、というのは酷だ」(by 元岩波の編集者)

2019-06-02 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 6月 2日(日)10時58分57秒

>筆綾丸さん
>デューラーのサインはなぜ神社の鳥居に酷似しているのだろう?

浜崎あゆみのロゴがデューラーのサインに似ているなと思ったことがあります。
これも鳥居っぽいですね。

https://avex.jp/ayu/

『異端の時代』の「引用文献/参考文献」からG・K・チェスタトン『正統と異端』、ツヴェタン・トドロフ『民主主義の内なる敵』、堀米庸三『正統と異端─ヨーロッパ精神の底流』などを拾い読みしているのですが、何だか集中できなくて、いささかスランプ気味です。
気分転換にと思って購入した森見登美彦『熱帯』も、途中まではすごい小説かも、と思って読み耽ったのですが、後半に入ると急にダレてしまい、何だかなあー、という感じで終わってしまいました。
しょうがないので、ゴジラでも見に行くか、と思っています。

ところで、ツイッターで深井智朗氏の『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』(中公新書、2017)が入手できなくなっていることを知り、そういうのはちょっと行き過ぎではないかなあと思いました。
深井氏がやったことは間違いなく悪いことではありますが、そうした行為と深井氏の業績は別物なので、岩波が『ヴァイマールの聖なる政治的精神』を絶版にするのはともかく、他の出版物はそのままにしてほしいですね。

https://twitter.com/quiriu_pino/status/1134085969383026688

また、中日新聞の5月30日の記事に、

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 問題となった書籍を出版したのは、数多くの学術専門書を出し、人文社会系書籍の出版では定評ある岩波書店だった。各分野に精通した人材を積極的に採用するなど、アカデミズムに強いパイプを持っているのが強みである。その岩波なら編集段階で気づくことができたのではないか。
 この疑問について、元岩波のある男性編集者は「編集者は学者ではない。著書内容の文献として挙げられている文書までチェックせよ、というのは酷だ」と語る。編集者は著者の思考の綿密さや文脈の作り方を読み込んでいくが、「そこで感銘を受け、納得してしまうと、もう疑う余地がない」(男性編集者)

https://twitter.com/Annan3/status/1133964153192714240

とありますが、この「元岩波のある男性編集者」はちょっとズレていますね。
カール・レーフラーの件では学術論文に通常要求される出典がないことが根本的な問題なのであって、それは編集者が簡単にチェックできる形式的な作業項目です。
たとえ編集者が「著者の思考の綿密さや文脈の作り方」に「感銘を受け、納得して」しまったとしても、「でも先生、ここは出典が必要なので追加してくださいね」とお願いすることは全く容易な作業です。
そのような基本的な作業を怠った点で、岩波の編集者の出版倫理上の責任は免れがたいですね。

「カール・レーフラー」を探して(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3581a30f36a9a15186088d3432aa7762
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/41688dfe5dbd85f2797c4320e7b9fdb2

中日新聞記事には「他にも深井氏が一五年に発表した論文も捏造と結論づけた」とありますが、『図書』の「エルンスト・トレルチの家計簿」は「論文」ではなくエッセイで、こちらは編集者の責任を問うのはちょっと無理っぽいですね。
特定分野で最先端の研究者が、ドイツの大学の資料室に「一〇枚ほどの茶色く変色した書類の束」が存在すると言っている以上、その存在を疑え、というのは編集者に酷に過ぎます。

「エルンスト・トレルチの家計簿」を読む。(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5fc0301eef2643330ec05e69b3d27b2f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cad0a7cf2a755325dfc37106e891ebc2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ba9b2399f97450e6a8ae2e00d694561
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/90f5597cb7e87b6275a0f3b4a41274c9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3dad363fe636aca5bf8d1bdf57255235


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

deus brexit 2019/05/31(金) 09:32:19
小太郎さん
森本あんり氏の『異端の時代』を拾い読みしてみました。ご指摘のように、興味深い書ですね。

https://art.hix05.com/durer-2/durer215.kavalier.html
「日本に真正の異端が生まれ、その中から腹の据わった新たな正統が生まれることを願いつつ、筆を擱く」(あとがき)は、デューラー『騎士と死と悪魔』(223頁)に関するパウル・ティリヒの解釈を踏まえた表現ですが、このような理解は、図像学的に、正統なのか異端なのか、といった、まあ、どうでもいいような疑問を抱きました。(何の関係もないのですが、デューラーのサインはなぜ神社の鳥居に酷似しているのだろう?)

「神は、かつて語った(deus dixit)だけでなく、今も語っている(deus dicit)」(206頁)を踏まえ文法を無視して強引に訳すと、deus brexit は「神はすでに大英帝国を去った」くらいの意味になりますね。

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 キリスト教の「三位一体」論も、まさにそのような動的平衡の中からかろうじて生み出された正統であった。いかにして三が一であり得るのか、という不可能な問いをめぐって、「存在」「本質」「位格」といった高度に抽象的な概念がギリシア語とラテン語で飛び交い、その激しいスクラム合戦の下からぽろりとこぼれ出るように生まれたのが正統教理である。第一回公会議でアタナシオス派とアリウス派の間に繰り広げられた政治的な駆け引きの激しさはよく知られているが、その最終的な帰趨は、父と子の本質が「同一」(homoousios)なのか「相似」(homoiousios)なのかという極小のイオタ(i)の違いにかかっていた。この極小の一字をめぐる論争が、やがて巨大な溝渠へと発展し、正統と異端とを分けてゆくことになるのである。(134頁~)
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要するに、正統と異端とは、シニフィエとシニフィアンの戯れ、というか、禍福は糾える縄の如し、ということだな、と思いました。

追記
RINO(Republican in Name Only)の発音が Rhino(犀)に似ているので、名前だけの共和党員を捜し出すことを Rino Hunting(犀狩り)と呼ぶ、と序章にありますが(5頁)、民主党の場合、DINO(Democrat in Name Only)を Dinosaur の略称として Dino Hunting(恐竜狩り)と呼ぶ、というようなことはあるのですかね。
この伝でゆくと、「なちゃって異端」(214頁)や丸山眞男の云う「居直り異端」「片隅異端」(30頁)は、HINO(Heretic in Name Only)となり、「トントン トントン ヒノノニトン」という日野自動車のテレビコマーシャルのような塩梅ですね。

アレクサンドリアのオリゲネスが、若気の至りでみずから去勢してしまい、後年、その誤りに気づいたことに触れ、
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傍目からすると、もうちょっと早めに気づいてもよさそうなものだが、これこそ「後悔先に立たず」と言うべきか。こうしてみると、聖書を読むというのは、どうやらかなり危険なことのようである。ことに、まじめ一辺倒な読み方が危ない。一つ間違うと、とんでもない結果をもたらすからである。・・・聖書は、そこそこ好い加減に読むに限る。それが正しい読み方なのである。(105頁~)
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という記述が続きますが、この文章にはとぼけた味わいがあり、とりわけ、「(後悔先に)立たず」「一(辺倒)」「一つ(間違うと)」はなにやら意味深長です。

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