学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

「カール・レーフラー」を探して(その1)

2018-11-11 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月11日(日)21時56分18秒

深井智朗氏の件、ちょっとびっくりですね。

-------
東洋英和女学院院長に研究不正疑い 引用論文存在せず?

 学校法人・東洋英和女学院(東京都港区)が、学界や論壇で受賞を重ねる深井智朗(ともあき)院長の著書に「研究活動上の不正行為の疑いがある」として、学内調査委員会を設置することが9日わかった。深井氏が引用した神学者の論文の存在が確認できていないという。
 問題の著書は「ヴァイマールの聖なる政治的精神――ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム」(岩波書店、2012年刊行)。4ページにわたり、「カール・レーフラー」という名の神学者が書いたとされる論文「今日の神学にとってのニーチェ」に基づいて論考が展開されているが、当の論文の書誌情報は示されていなかった。【後略】

https://www.asahi.com/articles/ASLC972PYLC9UCLV013.html

この掲示板でも『ヴァイマールの聖なる政治的精神』に少し言及したことがありますが、私自身の関心は森鴎外の「かのやうに」に出てくるアドルフ・フォン・ハルナックという神学者について知りたいというだけのことだったので、「カール・レーフラー」が登場する部分は斜め読みで済ませていました。

五條秀麿の手紙(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/35e6dcdccbb3df021601109a5670b320
五條秀麿の手紙(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/749396dca7e34e24dd7faf3f62eba3aa
「かのやうに」とアドルフ・ハルナック
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/30c61f6e07014e1938162323f7670929
『ヴァイマールの聖なる政治的精神─ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/05c17e6a9f9523a67d4f569559ed713a

『ヴァイマールの聖なる政治的精神』を確認してみると、問題の「4ページにわたり、「カール・レーフラー」という名の神学者が書いたとされる論文「今日の神学にとってのニーチェ」に基づいて論考が展開されている」のはp196~199ですね。
同書の全体の構成は、

-------
プロローグ 聖なる政治的精神
――近代ドイツ・プロテスタンティズムの二つの政治神学
第1章 アドルフ・フォン・ハルナックとマックス・ヴェーバー
――世紀末の二人のリベラル・ナショナリスト
第2章 ゲオルク・ジンメルが見た転換期のドイツ神学
――ヴィルヘルム帝政期の国家神学とヴァイマールの神聖フロント世代の政治神学
第3章 学問の市場化としての「学問における革命」
――大学神学部と大学の外の神学
第4章 ニーチェは神学を救うのか
――ヴィルヘルム期からヴァイマール期の神学におけるニーチェの奇妙な流行
第5章 ヴァイマールの神聖フロント世代の殿を戦うディートリッヒ・ボンヘッファー
第6章 神聖フロント世代の両義的な政治精神
――パウル・ティリッヒとエマヌエル・ヒルシュにおける「民族的なもの」
エピローグ プロテスタンティズムとナショナリズム

https://www.iwanami.co.jp/book/b261288.html

となっていて、「第4章 ニーチェは神学を救うのか ヴィルヘルム期からヴァイマール期の神学におけるニーチェの奇妙な流行」は、

-------
1 「表現主義」批判としての「新即物主義」の時代
2 ニーチェのキリスト教批判はどのように解釈されるべきなのか
3 新即物主義の画家オットー・ディックス
4 ニーチェのキリスト教批判の神学的援用
5 神聖フロント世代における二つのニーチェ利用
-------

の五つの節に分れています。
問題の4頁は「4 ニーチェのキリスト教批判の神学的援用」ですね。
参考までに冒頭を少し引用してみると、

-------
4 ニーチェのキリスト教批判の神学的援用

 神学史のもうひとつの事例を取り上げてみよう。ヴィルヘルム期末期から既存の教会や神学への批判を繰り返していた『ディ・タート』誌に論文をしばしば投稿していた、ディックスと同年代の神学部外の神学者カール・レーフラーは、一九二四年に書かれた「今日の神学にとってのニーチェ」という論文の中で、ニーチェのキリスト教批判を分析した上で、今日のカール・バルトの神学はニーチェの批判したリッチュルの神学と同じ構造を持っているが故に、その批判を免れることはできず、ニーチェの批判によってカール・バルトの神学は消滅するという議論を展開している。レーフラーはかつて「パトモス・クライス」にさえ参加したバルトが、いつの間にかゲッティンゲン大学を皮切りに大学の教授となり、教義学大系に興味を持ち始めたということに疑念を持った神学者のひとりであった。彼自身は堅信礼教育における使徒信条の使用を拒否したために、牧師としての地位を剥奪され、自由キリスト者同盟という雑誌上の交流グループを一九二九年に立ち上げたひとりである。彼は神聖フロント世代のひとりであったが、二〇年代以降「転向」を果たした神学者たちの裏切りを批判した、フロントにとどまった神学者のひとりである。
-------

といった具合です。
このレベルの文章であれば「今日の神学にとってのニーチェ」には何らかの形で出典の明示が必須でしょうが、本文にも注記にも、それは見当たりません。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 松村敏「大正中期、諏訪製糸... | トップ | 「カール・レーフラー」を探... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』」カテゴリの最新記事