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「事態の冷静な経験的観察はそれに適合した唯一の形而上学として<多神論>を認めることへ導く」(by マリアンネ・ウェーバー)

2019-06-20 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 6月20日(木)12時02分35秒

マリアンネ・ウェーバーの『マックス・ウェーバー』(大久保和郎訳、みすす書房)、久しぶりにパラパラ眺めてみました。
と書くと、かつてウェーバー教徒の間では殆ど聖書扱いされていた同書を、あたかも私が熟読済みであるかような印象を与えるかもしれませんが、さにあらず。
以前パラパラ眺めたことがあり、そして今再びパラパラ眺めているだけなのですが、その主たる理由は、とにかく同書の分量が多いからです。

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マックス・ウェーバーを人間的にも学問的にも知っていると信じている人でも、この本には驚かされ、感動させられ、最後には圧倒されるだろう。これは彼の妻によってのみ、しかもこのような妻によってのみしか書かれ得ぬものだった。なぜなら、この人間の生活を完全に理解するためには、その生活の人間的に最も内奥のものを知悉するのみならず、その精神的内容と価値についての十全な理解を持たねばならなかったからである。
マリアンネ・ウェーバーの名は現代の精神的政治的運動のなかで鳴り響いている。彼女が自分の夫の学問的業績を述べた諸章は、資質を同じくするもの同士の理解を示しているが、夫との多年にわたる思想交流の結果なのである……。それゆえこの本は、さまざまの深淵を覗かせるにもかかわらず、その時代の学術文化の進展のうちに組込まれ、それによって限定されている一人の偉大な学者の伝説というよりはるかに以上のものなのだ。ここでその相貌をあらわされているものは、人間的な、その高低を問わず現代のすべての圏に触れて来た生活の最大の調和なのだ。

https://www.msz.co.jp/book/detail/01949.html

夏の暑い時期に難解なウェーバー沼にハマり込みたくもないので、とりあえず「宗教音痴」に関係する部分だけ引用しておきます。
みすずの新装版(といっても1987年刊)は一冊になっているようですが、私が図書館でコピーして来たのは1963年の上下二巻本のうちの上巻です。(p257)

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 ウェーバーが特に明言しているように、以上のような説明は哲学を説こうとするものではなく、隠されていた事実をあばきだし、一貫した論理をもってとことんまで考え抜かれた意味連関を開示しようとするものである。「さまざまの生活秩序のあいだの葛藤の観念的に構成された類型というものの持つ意味は、単に<この箇所においてはこの葛藤は内面的に可能であり『適切』なものである>ということだ─それが<止揚された>と見做し得るような観点は一つもないという意味では全然ない」それはつまりこういうことである。経験的認識の観点からすれば、たしかにいろいろの価値圏のますます増大する衝突という事実があって、これは統一的な世界像というものとは両立しない。しかし思弁や信仰が別の─勿論証明不可能な─解釈をもってこの多元的分裂を覆い包むことを妨げるものは何もない。─ウェーバー自身がこのような可能性にいかに面していたかということは、おそらく一九一九年二月九日の手紙の次のような箇所があきらかにしていると思う。「私はたしかに宗教的な意味ではまったく音痴で、宗教的性格の何らかの霊的建築物を自分の内部に打ち建てる欲求も能力も持ち合わせてはいない。しかし精密に自己検討してみると、私は反宗教的でもなければ非宗教的でもない」それにしてもやはりウェーバーにとっては、上に述べたような事態の冷静な経験的観察はそれに適合した唯一の形而上学として<多神論>を認めることへ導くという事実は変らなかった。「それは神々や魔神たちの呪力からまだ解放されていない古代世界におけると同じようなものだが、ただその意味はちがう。古代ギリシャ人はアフロディテに、次いでアポロに犠牲をささげた。そして特に各市民は自分の都市の神々に犠牲を供えた。魔術から解放され、宗教的態度の神話的な、しかし内面的真実性を持った形態性を奪われてはいても、現代人もやはり同じことをやっているのだ。そしてこの神々を、そして神々のあいだの闘争を支配するものは運命である。学問などというものでないことはあまりにあきらかだ」
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「以上のような説明」を引用すればもう少し分かりやすくなるのですが、これだけだとチンプンカンプンかもしれないですね。
ま、興味のある人は同書を読んでもらうことにして、「宗教音痴」に関係する部分の大久保和郎訳と生松敬三訳を比較してみると、

(大久保)
「私はたしかに宗教的な意味ではまったく音痴で、宗教的性格の何らかの霊的建築物を自分の内部に打ち建てる欲求も能力も持ち合わせてはいない。しかし精密に自己検討してみると、私は反宗教的でもなければ非宗教的でもない」

(生松)
「わたくしは……宗教的問題にはまったくの音痴です」と、かれは一九〇九年に書いている、「そしてわたくしは、自分自身のうちに宗教的性格のいかなる種類の精神的建造物をうち立てる必要も能力ももってはおりません。しかし、注意深く自己吟味をしてみると、わたくしは反宗教的でも非宗教的でもないようです。」

ということで、「霊的建築物」と「精神的建造物」の違いが若干気になりますが、大久保訳でも「音痴」は共通ですね。
一番変なのは生松訳では「一九〇九年に書いている」、大久保訳では「一九一九年二月九日の手紙」となっている点で、十年ずれています。
そこで池田光穂氏が引用されているドイツ語版を見ると、

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Wie Weber slelbst zu derartigen Möglichkeiten stand, erhellt vielleicht folgende Briefstelle vom 19.2.09:

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4c208bc2f4f54df71225239d60d798b3

とあるので、これはヒューズ・生松側が正しいのでしょうね。
大久保氏は「19.2.09」を1919年2月9日と勘違いされたようです。
さて、大久保訳を見てもこの手紙が誰宛てなのか分りませんが、これはおそらくマリアンネ自身宛てなので宛先が省略されているものと思われます。

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