学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

岸信介と難波大助

2015-05-08 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 5月 8日(金)09時06分43秒

岸信介がやたら面白くなってしまって、昨日から『我が青春 生い立ちの記/思い出の記』(廣済堂、1983)を読んでいるのですが、1914年(大正3)、旧制一高への入学準備の時期に難波正太郎という人物が登場してきますね。(p121以下)

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第七章 向陵生活

 松井須磨子のカチューシャに感激

 一高は天下の秀才を集め質実剛健の校風は自治協同の寄宿制度と相俟ち、向陵三年の生活は天下学生憧憬の的となったものである。従ってその入学試験は競争最も激甚でその比率が高いばかりでなく、競争者の質から見てもその受験には余程の確信がなければならなかった。山中と一高との関係は私共と中学校が丁度入れ替りになった級の難波正太郎君(今の黒川正太郎氏、周防村出身、同氏の次弟義人君は私と中学同級で今は吉田義人と改姓)が一高英法科に首席で入学し、当時の受験界に令名を馳せたもので、(中略)私の級から私の外小田切、倉橋の両君が受験することにした。
 私は中学を卒業すると間もなく上京し、本郷森川町の桜館という下宿に落着き、中央大学の予備校に通い受験準備をすることになった。(中略)賑やかになると兎角勉強よりも遊び癖がつき易く、又田舎から出て来て、上野、浅草などの盛り場に接すると動もすればその刺激に眩惑せしめられる惧れがある。又当時の予備校は頗る雑然として居り、規律も節制もなく、休んだり遅参早退することも勝手であった。そんな雰囲気であったから今から思うと汗顔の至りであるが、笈を負うて家郷を出た時の決心も何処へやら、余り勉強をしなかった。
 屡々映画(その当時は活動写真と言った)を見に行ったり、学校を欠席して寝そべって駄弁って居たりした。芝居にも時に行ったようで有楽座で見たイプセン劇『人形の家』やトルストイの『復活』が強い印象を与えた。前者は衣川孔雀がノラに扮し、後者は松井須磨子のカチューシャであったことも記憶に残っている。
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「山中」とは旧制山口中学のことですね。
「芝居にも時に行ったようで」という他人事みたいな書き方も、なかなかユーモラスですが、こんな生活を送って七月の受験本番を終えたあたりで、難波正太郎の名前がまた出てきます。

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 七月中旬試験が始まった。私は六月頃から脚気の気味にて一時は受験を止めようかと考えたことがあった。(中略)
 兎に角頑張って受験を終った。毎日難波正太郎君に試験の様子を聞かれ、成績が良くないので大分ひどくやられた。「皆出来たと思っても田舎者の出来たは当にならぬものだ。英語の訳など同じ出来でも田舎者の訳はなって居らぬから、従って自分でしくじったと思うようではとても駄目だよ」と言われた。一寸癪にも障ったけれども一高首席入学の秀才の言うこと故一言もなかった。
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岸信介は何も触れていませんが、周防村出身の難波正太郎は黒川に改姓し、弟の難波義人は吉田に改姓したとあるので、あれ、これは皇太子時代の昭和天皇を暗殺しようとした難波大助の兄じゃなかろうかと思って我妻栄他編『日本政治裁判史録 大正』(第一法規、1969)の虎ノ門事件の項(田中時彦執筆)を見たら、やっぱりそうですね。(p440)

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 難波大助の家は尊王主義の地方名家であった。代々毛利家家臣で、大助の曽祖父伝兵衛は明治維新の際尊王運動に尽力した功により、天皇に拝謁を許され、死後正五位を贈られた。父作之進もまた皇室崇拝の念があつく、かつ、地方名望家として県会議員から衆議院議員(庚申倶楽部所属)への道を歩んだ。大助は、十人兄弟の四男として、明治三十二年十一月七日、この家に生まれた。
 長兄正太郎、次兄義人はともに山口中学校を経て、それぞれ一高・東大、三高・京大への道を進んだ。(後略)
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岸信介は1896年(明治29)生まれなので、難波大助より3歳上ですね。

難波大助(1899-1924)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E5%A4%A7%E5%8A%A9
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