学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「不思議なレイアウト」の存続期間

2015-11-15 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月15日(日)10時30分30秒

12日の投稿「第1面の全面が書籍雑誌の広告という不思議なレイアウト」で書いた疑問、即ち朝日新聞の第一面が全面広告であった期間は何時から何度までかについてですが、『朝日新聞社史 明治編』(朝日新聞、1995)を見たところ、明治38年(1905)から昭和15年(1940)まででした。
それも東京朝日新聞に限った話で、大阪朝日新聞は別ですね。
何故に日露戦争の最中の明治38年かというと、理由は経営状態の悪化で、「従軍記者の費用やその通信代など編集関係の出費が急増したのに加えて、戦争による広告界の萎縮で広告収入が激減、また部数増と号外頻発による用紙代がかさんだりして、朝日の経理は急速に悪化し」、また、「ロシア艦隊に撃沈された特別通信船「繁栄丸」への賠償金一万三千円の支払いがこたえた」こともあり、更に「三十七年七月一日から煙草専売法が施行され、これまで岩谷天狗をはじめタバコ業者から出されていた広告が姿を消したこともひびいた」のだそうです。(p487)
この経営危機に際し、当時の経営陣は大幅な人員整理を行う一方、広告料の増収を狙って紙面の大胆な刷新を図った訳ですね。
同書から直接関連する部分を引用してみます。(p488以下)

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東朝、第一面を広告ページに
 三十八年元旦から東朝は第一面を広告専用ページとした。第一面を広告にあてたのは時事新報が最初で、明治十九年後半から月、ニ、三回、同二十年元旦からは正式に第一面を広告ページとしている。したがって、東朝の新機軸とはいえないが、この時期これを断行したのは、なんとしても広告の募集効果を上げたいというねがいが強かったからだろう。また、これによって、新聞輸送中に第一面が損傷して、記事が読みにくくなるのを防ぐこともできた。これにともなって、紙面の編成も大きくかわり、第二面に内外電報、戦況、政治経済の重要記事をのせ、また、いわゆる三面記事といわれた社会面を第六面に移すなどした。第四面の内外電報や政治記事の下約一段にも社会記事の雑報を入れたが、これは今日おこなわれている「総合編集」のはしりともいえる。
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そしてこの改革の成果はどうかというと、

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 結果的に広告主から非常に好感をもたれ、三十八年上半期の東朝広告料収入は戦勝も手伝って四万七千三百七十四円の新記録(三十七年上半期は三万四千八百九十八円)をつくり、下半期にはさらに六万四千八百円にのびた。もっとも同下期の大朝の広告収入は、三十四日間の発行停止があったにもかかわらず、十四万四千七百円で圧倒的に多い。これは東朝にくらべて発行部数やページ数が多く、また、はやくから広告収入を重視して努力していたためである。
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ということで、経営面では素晴らしい改革だったのですが、反面、低劣な広告による紙面の品位低下も問題になり、明治38年9月からは広告の選別も行うようになったそうですね。
ま、どの程度選別されたかというと、「『処女懐胎』という、いかがわしい本の広告」や「月経帯」は全くOKという水準なんでしょうね。
そして、「東朝が、第一面を記事面に戻したのは昭和十五年九月一日、東朝、大朝の題号が「朝日新聞」に統一されたときである」(p489)とのことなので、「不思議なレイアウト」は明治38年(1905)から昭和15年(1940)まで、実に35年間も続いたことになりますね。
とすると、他の新聞の事情は分かりませんが、東京朝日新聞のような有力新聞がこのような状況であったのであれば、石川健治氏の「御用新聞だった『京城日報』は第1面の全面が書籍雑誌の広告という不思議なレイアウト」という感想は、昭和10年(1935)の時点での一般人の感覚とは全く異なることになりそうですね。

>JINさん
これから外出するため、レスが少し遅れます。
すみませぬ。
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