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「死してなお、ジェレミー・ベンサムは最大多数の最大幸福を促進しているのである」(by マイケル・サンデル)

2019-06-23 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 6月23日(日)09時20分1秒

>筆綾丸さん
>マルティン・ルターやジャン・カルヴァンを想定していて

返事が遅くなってすみませぬ。
明確ではありませんが、そこまで大物を想定している訳ではなく、無神論の潮流の中でもなお多く存在していた一般的な信仰者を念頭に置いているようですね。
「未亡人」マリアンネ・ウェーバーの文章は六歳上の旦那の文章ほど悪文ではないのですが、ダラダラと長くて鬱陶しいです。

Marianne Weber(1870-1954)

森本あんり氏の引用の仕方、マイケル・サンデルの方もちょっと変ではないかなと思って少し調べているところです。
NHKが主導したサンデルブームは何だか胡散臭い感じがして、私はサンデルの著書をきちんと読んだことがなかったのですが、さすがにハーバード大学きっての講義の名手だけあって文章も巧みですね。
『これから「正義」の話をしよう』(鬼澤忍訳、早川書房、2010)の次の部分、ちょっと笑ってしまいました。(p76以下)

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 ベンサムとミルという功利主義の二人の偉大な提唱者のうち、ミルのほうがより人間味のある哲学者であるのに対し、ベンサムの方はより断固とした哲学者だ。ベンサムは一八三二年に八四歳で死んだ。しかし、ロンドンへ行く機会があれば、いまでもベンサムのもとを訪れることができる。ベンサムは自分の遺体を保存し、防腐処理を施し、展示するようにとの遺言を残した。おかげで、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジへ行けば、ベンサムに会うことができる。彼は実際に身に着けていた服を着て、ガラスケースの中で物思わしげに座っている。
 死の少し前、ベンサムはみずからの哲学に忠実な一つの問いを自分に投げかけた。死者が生者の役に立つにはどうすればいいか、と。ベンサムの結論は次のようなものだった。一つは、遺体を解剖学の研究に利用してもらうことができるだろう。しかし、偉大な哲学者の場合には、肉体そのものを保存して未来の思想家たちにインスピレーションを与えるほうがいいはずだ。ベンサムは自分をこの二番目のタイプに分類した。
 実のところ、ベンサムはあまり謙虚な人物ではなかったようだ。自分の体の保存と展示について詳細な指示を残しただけでなく、友人や弟子たちが毎年「道徳と法に関する最大幸福説の創始者を偲ぶために」会し、その折には自分もその会合に出席させるよう言い残したのだ。
 ベンサムの信奉者たちはその願いをいれてきた。ベンサムの「オートアイコン」─ベンサムみずから付けた名称─は一九八〇年代に「国際ベンサム協会」の創立式典に参列した。剥製となったベンサムは、ユニバーシティ・カレッジの運営審議会に台車に乗って出席している。その議事録には「出席すれども投票せず」と記録されるそうだ。
 ベンサムの入念な計画にもかかわらず、防腐処理を施された頭部がひどく傷んだので、いまでは本物の代わりに蝋製の頭が眠ることなく社会を見つめている。現在では地下室に保管されている本物の頭部は、一時は両脚のあいだに置いた板に載せて展示されていた。ところが、学生たちがその頭を盗み出し、身代金として慈善活動への寄付をカレッジに要求するという事件が起きたのだ。
 死してなお、ジェレミー・ベンサムは最大多数の最大幸福を促進しているのである。
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この文章だとベンサムは毎年、「道徳と法に関する最大幸福説の創始者を偲ぶため」の会合に出席しているように読めますが、ウィキペディアで引用されていたリンク先の記事によれば、これは「神話」で、会合への参加は一回だけのようですね。

181-year-old corpse of Jeremy Bentham attends UCL board meeting
(ブキミ画像あり。閲覧注意)

Jeremy Bentham(1748-1832)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

春の祭典 2019/06/20(木) 17:35:29
小太郎さん
「宗教的性格の何らかの霊的建築物を自分の内部に打ち建てる欲求も能力も持ち合わせてはいない」
「自分自身のうちに宗教的性格のいかなる種類の精神的建造物をうち立てる必要も能力ももってはおりません」
よくわからない表現ですが、これは、霊的建築物(精神的建造物)を自己の内部に建立した人として、マルティン・ルターやジャン・カルヴァンを想定していて、そして、反宗教的でもなければ非宗教的でもないが、ニーチェ以後の20世紀では、霊的建築物(精神的建造物)など抑もありえないのだ、というふうに考えればいいのでしょうか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E3%81%AE%E7%A5%AD%E5%85%B8
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古代ギリシャ人はアフロディテに、次いでアポロに犠牲をささげた。そして特に各市民は自分の都市の神々に犠牲を供えた。魔術から解放され、宗教的態度の神話的な、しかし内面的真実性を持った形態性を奪われてはいても、現代人もやはり同じことをやっているのだ。
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この記述から、ストラヴィンスキーの傑作『春の祭典』(1913)を連想しました。

三浦しをんの小説を半分ほど読んで、万城目学より優れている、つまり、現代日本の作家の中で最高峰かもしれない、と思うようになりました。
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