学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

「かつてマックス・ヴェーバーは、自分が「宗教音痴」であることを公言し」たのか?

2019-06-15 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 6月15日(土)23時20分31秒

>筆綾丸さん
>マックス・ヴェーバーの「宗教音痴」は、ドイツ語では何と言うのでしょうね。

11日の投稿で引用した森本氏の文章のうち、

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 外から見ると、このような不自由は哀れむべき洗脳の結果と映るかもしれない。宗教は結局われわれの自律的な判断を撓め、人間を不自由にする。だから宗教は恐ろしい、という結論にもなろう。だが、まさにそのような不自由にこそ、彼方に信じられている神が現実的な手応えとして存在を主張するように思われる。かつてマックス・ヴェーバーは、自分が「宗教音痴」であることを公言し、ナイーヴな「心情倫理」を辛辣に批判した。しかし、それにもかかわらず彼が最後に「はかりしれない感動を覚える」と書いたのは、「わたしの良心は神に囚われている。だからこうするより他にない。われここに立つ。神よ助けたまえ」というルターの言葉であった。そこに彼は、「政治への天職をもちうる真の人間」を見たのである。われわれも、いつかどこかでこのような良心の決断を迫られることがないとも限らない。その限り、人はみな平等なのである。人間が自分の意志や選択の自由にならない他者と向き合い、自己の外にある何ものかの呼びかけに応えることを求められていると感ずること、そこに神信仰の現代的なアクチュアリティがある。
-------

には「「政治への天職をもちうる真の人間」を見たのである」に注41が付されていて、これを見ると、

41) マックス・ヴェーバー『職業としての政治』脇圭平訳(岩波書店,1980年),103頁.

とあります。
そこで同書を確認してみましたが、103頁には「宗教音痴」という表現はなく、念のために最初から全部通して読んでみても、やっぱり「宗教音痴」は見当たりません。
あれれ、と思って「ウェーバー」&「宗教音痴」で検索してみたら、池田光穂氏(大阪大学教授)のサイトに、

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「わたくしは……宗教的問題にはまったくの音痴で す」と、かれは1909年[2月19日の書簡]に書いている、「そしてわたくしは、自分自身のうちに宗教的性格のいかなる種類の精神的建造物をうち立てる 必要も能力ももってはおりません。しかし、注意深く自己吟味をしてみると、わたくしは反宗教的でも非宗教的でもないようです」(マリアンヌ・ウェーバーの 伝記から:翻訳は生松敬三訳:ヒューズ「意識と社会」p.214)

Wie Weber slelbst zu derartigen Möglichkeiten stand, erhellt vielleicht folgende Briefstelle vom 19.2.09: »Ich bin zwar religiös absolut unmusikalisch und habe weder Bedürfnis noch Fähigkeit, irgendwelche seelischen Bauwerke religiösen Charakters in mir zu errichten. Aber ich bin nach genauer Selbstprüfung weder antireligiös noch irreligoiös.« S. 370


とあり、「宗教音痴」は、

Ich bin zwar religiös absolut unmusikalisch

のようですね。
ウェーバーが地味に書簡に書いているだけならば、森本氏の「かつてマックス・ヴェーバーは、自分が「宗教音痴」であることを公言し」は誤りになりますね。
ま、細かいことですが。
ついでに更に細かいことを言うと、ウェーバーが『職業としての政治』で引用するルターの言葉は、

「私としてはこうするよりほかない。私はここで踏み止まる」

だけであり、森本氏の、

「わたしの良心は神に囚われている。だからこうするより他にない。われここに立つ。神よ助けたまえ」

と比較すると、森本氏は前に「わたしの良心は神に囚われている。だから」を、後ろに「神よ助けたまえ」を付加していますね。
「われここに立つ」で検索してみたところ、札幌ナザレン教会のサイトには、

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 ルターの『95個条の提題』はローマ法王の怒りに触れ、破門状をつきつけられる結果となりました。その破門状を公衆の面前で焼き捨てたため、ルターは、ドイツ皇帝からウォルムスの国会に喚び出されて、訊問される羽目に陥りました。

 ウォルムスの国会では、机の上にうず高く積み上げられたルターの著書を前にして、三つの訊問がなされました。
第一問:これらの著書はすべて、お前の著書か?答:私の名前があれば、すべて私の著書です。
第二問:ここに書かれていることはすべて、お前の考えか?答:そうです。
第三問:ここに書かれていることを、すべて撤回するか?ルターが24時間の猶予を求めたため、国会は一日延期され、翌日再開されましたが、第三問へのルターの答は、こうでした。「私の良心は神の言葉に捕えられております。私の誤りが神の言葉によって指摘されない限り、私は何一つ撤回しません。良心に背くことは、正しくないし、安全でもないからです。我、ここに立つ。神よ、我を助け給え。アーメン。」


とあり、森本氏の引用は要約のようですね。
ま、別に森本氏のウェーバーの引用が不正確だ、などと言いたい訳ではありませんが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「宗教音痴」 2019/06/14(金) 13:28:25
小太郎さん
森本あんり『アメリカ的理念の身体』からのご引用文のうち、とくに、「良心が自由ではないからである」や「わたしの良心は神に囚われている」にひっかかりました。
辞書には、conscience = con + scire で、scire(知る)はラテン語由来とあります。もしかすると、scire は人間の能力で「知る」のではなく、神の力によって人間は「知る」ことができる、というのが原義であって、conscience を「良心」としたのは誤訳で、「神の心」とでも訳しておけばよかったのではないか・・・などと愚考していたのですが、イスラム教との比較をみて、腑に落ちました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%9C%AC%E3%81%82%E3%82%93%E3%82%8A
森本氏の「神奈川県生まれ。東京都立小石川高等学校を経て、1979年国際基督教大学人文科学科卒。1982年東京神学大学大学院組織神学修士課程修了。1982 - 86年日本基督教団松山城東教会牧師。」という経歴をみると、宗教的に「自由な」風土の日本で育ちながら、なぜ、宗教的に「不自由な」基督教徒になれるのか、文化的に「宗教音痴」の日本人がなぜ基督教徒になれるのか、という事情がどうもよくわかりません。もっとも、それは日本近世のキリシタンも同じですが。
ちなみに、マックス・ヴェーバーの「宗教音痴」は、ドイツ語では何と言うのでしょうね。
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