学問空間

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0092 常在光院の謎

2024-05-27 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第92回配信です。


一、常在光院

歴史学研究会大会に二十年ぶりくらいに参加。

高鳥廉氏の報告「足利将軍家所縁の五山派禅宗寺院にみる政治秩序」のレジュメより抜粋

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【史料②】義詮、『新千載和歌集』記載の尊氏名を「常在光院」とすることの可否について洞院公賢に確認
→義詮は、尊氏義母(釈迦堂殿。金沢貞顕妹)を通じて手にした常在光院〔山家98〕が院伝号に相応しいと判断
何故常在光院か…等持院:清子の院殿号と重複
        等持寺:直義との関係が強いため憚られたか
→結局、尊氏が等持院殿と呼ばれるようになり、清子の法名は等持寺殿を経て果証院殿へと変更〔山家98〕

史料②『園太暦』延文四年〔一三五九〕三月二十六日条
 
諏訪大進円忠法師、又付妙悟〔藤原親季〕奉武家不審二ケ条、愚存以妙悟筆注遣之、
 前将軍周忌之間、可被行法花八講之旨其沙汰候、
 …又彼〔足利尊氏〕詠歌、可加今度勅撰候、被載
 常在光院寺号之由其沙汰候、而関東〔金沢〕貞顕
 入道本願相続之条、不可然哉否、同可承存之由内々
 其沙汰候、両条有御伺、可示給候、恐惶謹言、
    三月廿六日         円忠判
     左馬助入道〔藤原親季〕殿(中略)
一、先公〔足利尊氏〕勅撰御位署事、
 常在光院御号、以非自身草創及先祖建立之寺院、
 為其号之条、雖廻思案猶不分明、贈官人署所先規
 不同歟、被任撰者沙汰之条可無其難歟、(前後略)
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「知恩院方丈庭園」(京都市埋蔵文化財研究所)
https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/335.pdf
「知恩院庭園と常在光院」
https://kahans.com/travel/garden/11550/
山家著(その9)「京都での根拠地」〔2021-04-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/018377d40cbe9ca9d31fee685667c2f0

常在光院は「非自身草創及先祖建立之寺院」どころか、尊氏が(新田義貞を通して)殺した金沢貞顕ゆかりの寺ではないか。
高義母の釈迦堂殿を通して尊氏の財産となったとしても、義詮がその寺号を勅撰集で尊氏の名前として使いたいと思うのは異常ではないか。

山家著(その10)「 足利氏ゆかりの寺院」〔2021-04-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/474dd81aa0c6f1cbea8d92f4f64f0be4
「無外如大と無着」
http://web.archive.org/web/20061006213421/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yanbe-hiroki-mugainyodai.htm

二、安達泰盛娘の無着と孫の釈迦堂殿

高義母・釈迦堂殿の立場(その1)~(その5)〔2021-02-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/527766e220012abaa4256eeda165cde2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2fb8e6cb191446e60c5d99d36ef82f44
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ecabae37040d6be7bb9b3abb3fce8908
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/353124b361d535704d03c1411784328b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52f9da2097054b4ec4fd6deb482074c9
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0091 赤橋登子の兄・東大寺尊勝院時宝について

2024-05-27 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第91回配信です。
※10:45のあたりで『前田家本』が『太平記』だなどと言ってしまいましたが、これは前田育徳会所蔵「平氏系図」です。(p179)

一、桃井直常暗殺未遂問題

松山充宏氏『桃井直常とその一族 鬼神の如き堅忍不抜の勇将』(戎光祥出版、2023)
https://www.ebisukosyo.co.jp/item/700/

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p91
直常に殺意を抱く「彼の女性」の第一候補は、尊氏の正室である赤橋登子をおいて他にはいない。登子にとって、実子の義詮と義弟の直義の対立は日を追って大きくなっていた。また直義の養子となった庶子直冬の活躍は、義詮が将軍家を継承する際の不安材料になる。
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事実であれば私の想定する「鉄の女」としての赤橋登子像にふさわしい。
桃井直常も観応の擾乱以前はそれほどパッとしない存在。
それこそ暗殺未遂をきっかけに尊氏・義詮に絶対に妥協しない直義派の化け物に変貌してしまったような感じ。
客観的に黒幕が誰であったかはともかく、直常は黒幕は赤橋登子と確信していたのではないか。
また、義詮は若年にもかかわらず、直義と正面から渡り合い、時には老獪ともいえる対応をする。
義詮を有能な政治家に教育したのは「鉄の女」赤橋登子ではないか。
しかし、現在の私の能力では松山氏の仮説を補強する材料を見つけることは困難。
桃井直常暗殺未遂問題についてはいったん撤退。

二、赤橋登子の兄・東大寺尊勝院時宝について

平雅行氏『鎌倉時代の幕府と仏教』(塙書房、2024)
http://rr2.hanawashobo.co.jp/products/978-4-8273-1350-5

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第三章 北条氏の仏教界進出
はじめに
第一節 山門系の北条氏出身僧
第二節 東密系の北条氏出身僧
 1 東寺長者となった北条氏出身僧
 2 東大寺尊勝院時宝と西室顕宝
 3 その他の東密系北条氏出身僧
第三節 寺門系の北条氏出身僧
第四節 その他の北条氏出身僧
むすびにかえて
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p213

2 東大寺尊勝院時宝と西室顕宝
 (29)時宝法印(生没年未詳)については、「旧稿A」などで取りあげたが、その後、稲葉伸道氏が元弘の乱での動きについて、新史料を紹介された。ここでは、それらを踏まえて検討したい。特に幕府滅亡後の時宝に関しては、これまでの研究で触れられていないので、以下の分析には一定の学術的意義があるはずだ。まず、時宝について、「正宗寺本」は赤橋義宗の子とし、『前田家本』や観智院本「真言付法血脈図」や「正和記」(東京大学史料編纂所謄写本)は赤橋久時の子とする。こういう場合、義宗(一二五三~七七)の没後に兄の久時(一二七二~一三〇七)の養子となったと考えるのが順当だが、このケースでは年齢上の問題が残る。時宝の伝法灌頂が正和四年(一三一五)であることからすれば、義宗の子である場合、時宝の灌頂はどんなに若く見積もっても三十九歳ということになる。これは不自然に過ぎるだろう。そこで『前田家本』などに従って赤橋久時の子とした。公名は中納言、赤橋久時が六波羅探題に勤めていたこともあって、京都の公家の猶子となったと思われる。
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赤橋久時(1272‐1307)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E4%B9%85%E6%99%82

時宝の姉妹の赤橋種子が正親町公蔭(京極為兼養子、1297‐1360)の室となっている。
時宝が京極為兼の猶子となった可能性も考えられるのではないか。

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p215
 さて、『東大寺別当次第』によれば、元弘元年・元徳三年(一三三一)に教寛が東大寺別当に補任され、時宝法印が寺務代に補されている。教寛は時宝の印可の師である。彼らが補任された月日は不明であるが、この人事は元弘の乱が契機となったものだ。同年八月、後醍醐天皇は東大寺別当聖尋(東南院)を頼って奈良に潜幸した。【中略】後醍醐の潜幸をうけて、聖尋は「寺門一統」を図ろうとしたが、「西室・尊勝院両院家」が反対したため、後醍醐・聖尋は東大寺への入寺をあきらめ、鷲峰山を経て笠置山に籠城した。激しい攻防の末、同年九月に笠置山が陥落し、別当聖尋は長門に流罪になっている。そして聖尋の後任として、教寛が別当に補された。後醍醐と東大寺別当聖尋との結託を前にして、執権赤橋守時の弟である時宝を東大寺寺務代・尊勝院主に補任し、師の教寛を東大寺別当に任ずることで、反幕勢力を押さえ込もうとしたのだ。そして実際、笠置が陥落すると「東大寺尊勝院時宝僧都」の代官が末寺の笠置寺を知行し、帰山した後醍醐方の衆徒を打擲・追放しており、時宝が軍事指揮権を掌握したことを示している。
 【中略】しかし奮闘の甲斐なく鎌倉幕府は滅亡した。時宝は姿をくらませ、定暁が院主に還補されたのだろう。
 ところが、しばらくたった建武三年(一三三六)正月、後醍醐天皇と決別した足利尊氏が、鎌倉を発って京都攻撃に向かうが、その時、「尊勝院法印」が「満寺之衆徒」と「両国〔大和・伊賀〕軍勢」を率いて尊氏と合流している。「尊勝院法印」の軍事動員力が健在であったことを示しているが、しかし二月、尊氏は尼崎の戦いで大敗を喫し、そのまま九州に落ちおびた。やがて尊氏は態勢をたてなおして同年六月、光厳上皇を奉じて入京し、光厳は同年七月、尊勝院定暁を東大寺別当に補任した。後醍醐は一時降伏したものの、同年十二月には吉野に出奔し、南北朝の争いが本格化することになる。そして暦応元年(一三三八)に、勧修寺寛胤法親王(後伏見天皇の子)と時宝がそれぞれ東大寺別当と寺務代に補任された。寛胤は教寛の灌頂の師であるので、寛胤と時宝は身分は違うものの、教寛の弟子同志(同朋)ということになる。
 暦応四年、室町幕府は「尊勝院法印」に対し、佐々木道誉らとともに伊勢国の南朝軍を討伐するよう命じた。その結果、「伊州凶徒等」は「尊勝院被在国之間、恐于彼権威」とあるように「尊勝院法印」が軍事的に活躍している。【中略】建武政権の成立によって時宝は尊勝院院主ではなくなったが、それは政治状況から一時身を潜めていただけで、本人は尊勝院院主としての意識を持ち続けていたはずである。しかも暦応元年、足利尊氏の政権で時宝は東大寺寺務代に登用されている。登用された理由は、建武三年に時宝が尊氏と軍事的に提携して後醍醐の打倒に向かったことにあったろう。
 この推測を補強するのが、東山円城寺をめぐる相論である。【後略】
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p219
 以上のように、鎌倉末の東大寺には尊勝院時宝と、西室顕宝という北条氏出身の有力者がいた。しかし顕宝が幕府再興のために挙兵して戦死したのに対し、時宝は尊氏と提携する道を歩んだ。その理由を説明することは容易でない。時宝の兄・赤橋守時は最後の執権として、元弘三年新田義貞と千寿王(足利義詮、時宝の甥)の軍に敗れて戦死した。一方、きょうだい(兄妹・姉弟)の赤橋登子(一三〇六~六五)は、足利尊氏室としての立場を貫き、義詮・基氏の母として天寿を全うしている。時宝のあゆみは複雑であるが、それはまた登子の歩みの複雑さに通じるものである。
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謎の女・赤橋登子(その9)〔2021-03-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4961756736d97a173f9a995df7c06a75

「時宝の伝法灌頂が正和四年(一三一五)であることからすれば」、仮に時宝が赤橋登子と同年の生まれであるとすると、時宝の灌頂は十歳。
これはさすがに若すぎないか。
時宝は登子の兄であろう。
登子が兄の時宝を尊氏方に付くように説得したのではないか。
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