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三浦周行『鎌倉時代史』

2010-05-11 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 5月11日(火)21時44分12秒

>筆綾丸さん
>五摂家の分立
九条忠家が幕府に泣きついて関白にしてもらった時点で五摂家成立と考えるということですね。
ま、正確にはそうなんでしょうね。

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忠家、幕府に因りて宿志を達す
 十年〔1273〕五月、鷹司基忠の関白を罷め、九条忠家を以てこれに代へ、且つ藤氏長者に補し、随身兵仗を賜へり。而して此事たる、もと彼れが幕府に因りて多年の希望を達せるものなりしは、吉続記同年四月二十五日の条に、「大麓有沙汰之由風聞、九条前右大臣殿令達多年宿望給云々、驚耳、関東之所為云々、未被宣下以頭内蔵頭且被申歟」と見えたるにて知らる。是時彼れは正二位、前右大臣を以て、従一位、左大臣たる一条実経を超えたるものなれば、宮中の座次に於ては実経の下に居らざるべからず。故に彼れは切りに一座の宣旨を下されんことを望み、藤原公基も間にありて其議を唱へしかど、果さず(吉続記閏五月十三日の条、公卿補任)。

九条家再興の機運開く
 是時天皇は、御譲位の叡慮既に決し給へるが如く、閏五月には、家経を皇太子傅となし給へば、忠家の関白は久しからずして罷めんとの御思召なりしやに察せられ、其一座の宣旨を家経に保留して、忠家に許されざりしも亦、これが為めなるべくと思はる。而かも忠家の子忠教は、十二月を以て権中納言に任ぜられ、一門の再興、顕栄の機運はこれに依つて開かれたり。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-kamakura-65-69.htm#miura-68

承久の乱後は天皇も摂関も実質的には幕府が決定している訳ですから、権門体制論をそのまま受け入れるのは若干の滑稽感が伴いますね。
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