学問空間

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0062 森有正「南原繁先生」

2024-04-07 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第62回配信です。


森有正「南原繁先生」(『森有正全集 第5巻』、筑摩書房、1979)
※初出は丸山真男・福田歓一編『回想の南原繁』(岩波書店、1975)

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 先生に識って戴いたのは、私が東大文学部の助手をしていた昭和十八年頃であったと記憶している。太平洋戦争の真最中で学内は人けもすでにあまりなく、私は肺結核と肋膜炎の後遺症で学内にのこっていた。戦争の前途は暗く、この戦争はどうやって終るのだろうかという疑惑に閉じこめられる日々であった。日本列島南西方面の空襲もまだ始まっていなかったから、多分昭和十八年の春か初夏の頃ではなかったかと思う。
 ある日突然助手室の電話が鳴った。出てみると、「法学部の南原ですよ。一度話に伺ってよいですか」という先生からの電話であった。先生の高名はかねがね承知していたが、一度もお会いしたこともなく、瞬間何の用件だろうと一寸とまどったが、「いえ、こちらからすぐ伺います」と申し上げて電話を切った。【後略】
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南原繁(1889‐1974)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E7%B9%81
森有正(1911‐76)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%9C%89%E6%AD%A3

昭和18年(1943)現在、南原は54歳、森は32歳ほど。
丸山真男・福田歓一編『聞き書 南原繁回顧録』(東京大学出版会、1989)の「年譜」によれば、昭和18年は、

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三月、工学部長内田祥三、総長に就任(四十五年十二月まで)。九月、法学部教授会、安井問題で揺れる。十月、学生、生徒の徴兵猶予全面停止(十二月、学徒出陣)。
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津田博士の裁判に関する上申書(2014-06-29)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f76924ed76ff9eb97a4cf260eb7af70
歴史学研究会・会員向けクイズ(2014-07-01)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/82dac9e1be4c6f96eebabf450b24ddc6
【昭和17年の悪党交名】早稲田関係者は冷淡(2014-07-02)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cf3fdd04fb0e68758aff1eb6392f4363
中村稔『私の昭和史』(2014-07-04)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1b6fc7b930eba799d089c1e47b673fbf

安井郁(1907‐80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BA%95%E9%83%81

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 終戦後、先生は東大総長になられた。それは連合軍占領下、日本の旧憲法は機能を停止していて、日本国の主権も占領軍司令官の管轄下におかれるという開国以来の超非常時であった。
 個人的なことになるが、私はキリスト教信者であるので、天地創造の神を信ずるクリスチャンであられる先生が、占領下の大学の総長になられたことに異常なよろこびと心強さとを覚えた次第であった。先生なら必ず学問の自由と正しいと信ずる主張を貫徹されるであろうと信じたのである。戦後の大学には、大学法反対の闘争があり、また全面講和か単独講和かの争いがあったが、またそれらに伴って学内に学生闘争が展開され、先生はこの渦中にあって大学の自由と全面講和の主張を強く堅持された。私は偶々文学部教授会(私は当時文学部の助教授をしていた)から福武直氏らと共に学生委員を命ぜられ、南原先生とは頻繁にお目に掛る機会をもつことになった。
 そういう折々に私は先生の柔軟性に富む頭のよさに驚くことが度々であった。そして根柢には疑いを容れえない「私心のなさ」があって、先生が何をどう決定されようと私どもは常に安らかな気持ちでいることが出来た。権威に屈せず、決して変な決定をしない人、こういう先生のイメージは先生を識る凡ての人の確信であり、また一般に長たるものの基本的資質であると思われる。先生の下で約一ヶ年学生委員をしたことは、私のもっとも楽しい思い出の一つである。丸山真男兄を識るようになったのもその折であった。
 しかし南原先生に対して私は、自分の個人的問題に関して、もっともっと心に銘ずる事件があり、それが先生に多くの心痛をおかけしたことに就いて、今でも恐れと共に思い起すことがある。これは私の個人的問題であるからこれまでなるべく語らないようにしていたが、もしこれを語らないと先生に関する私の思いが大部分かくれてしまうので、この機会に書いておくことにする。

 一九五〇年八月、私は戦後第一回目のフランス政府給費留学生に選ばれて、一年の予定でパリへ来た。しかし私は一年でかえらず、それから二十四年間フランスにいてしまったのである。私は海外派遣の助教授であったから、それは直ちに私の身分上の問題となった。私はそれを覚悟していたから、留学期間が終ると共に、辞任をお願いし、その理由を書き送った。これは文学部、殊に私の属していた仏文科の先生方には大変な御迷惑と御心痛をおかけすることになってしまった。しかし、結局一、二年して私は辞任させて戴き、依願免官となった。
 それから暫くして、私は偶々パリにいた加藤周一君とランデーヴーをとり、時間より少し早目にオルレアン門にあるアクロポルというカフェー(今はもうない)へ行ってかれを待っていた。店のガラス戸が開いて人が入って来るので、見るとそれが南原先生ではないか。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94cab6fc827cd6a7f8ee757ee4dc96c1
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