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BY 鈴木小太郎

『徒然草』第216段の「その時見たる人の、近くまで侍りし」人

2017-12-12 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月12日(火)14時21分8秒

『高師直─室町新秩序の創造者』の参考文献に出ていた清水克行氏の『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)を読んでみましたが、尊氏・直義兄弟の異母兄で、金沢顕時の娘(釈迦堂殿)を母とする高義の話が分かりやすく述べられていて、良い本ですね。
以前、書店で手に取ったことはあるのですが、観光案内みたいな変なページが多かったので、軽い本と誤解していました。
細かいことですが、「Ⅱ 歴代足利一族をめぐる伝説と史実」の足利義氏に関する部分に、ちょっと変な記述を見つけました。(p113)

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 しかし、振り返ってみて、ここまでの義氏の人生は、北条氏に対しては、それなりに気も使っていたであろうが、おおむね順調な人生だった。鎌倉時代の足利氏の歴史を概観してみても、この義氏の時代が最盛期であったろう。この時期の義氏と執権北条時頼の親密な関係は、吉田兼好の『徒然草』第二百十六段にも描かれている。それによれば、時頼は鶴岡八幡宮への参詣の帰りに、義氏の亭宅を不意に訪れているが、このとき義氏はありあわせの肴を用意して夫婦で時頼をもてなし、時頼から「足利の染物」をねだられれば、三十疋の染物を用意し、時頼の見ているまえで女房たちに小袖に仕立てさせて献上したという。この義氏と時頼のざっくばらんな間柄は、傍目にも好ましく見えたらしく、以後も人々のあいだで長く語り継がれたという。二重三重に固く結ばれた北条氏との絆は、義氏に強い自負心を与えることになり、もはや晩年の彼に後顧の憂いは何もないかのようにみえた。
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小川剛生氏の『新版徒然草 現代語訳付』(角川文庫、2015)で『徒然草』第216段の原文を見ると、

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 最明寺入道、鶴岡の社参の次に、足利左馬入道の許へ、まづ使を遣して、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様、一献に打ち鮑、二献に海老、三献にかいもちひにて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆弁僧正、あるじ方の人にて座せられけり。
 さて、「年毎に給はる足利の染物、心もとなく候」と申されければ、「用意し候ふ」とて、色々の染物三十、前にて、女房どもに小袖に調ぜさせて、後に遣されけり。
 その時見たる人の、近くまで侍りしが、語り侍りしなり。
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ということで(p199以下)、「まづ使を遣して」とありますから、「不意に訪れている」訳ではありません。
「鶴岡の社参の次〔ついで〕に」急に行こうと思いついて、使者を出して先方の了解を得て訪問した場合でも、距離的・時間的に大して離れている訳ではないでしょうから「不意に訪れている」でも間違いとはいえないでしょうが。
また、「その時見たる人の、近くまで侍りしが、語り侍りしなり」とあるので、兼好自身が直接聞いたことは明らかであっても、「以後も人々のあいだで長く語り継がれた」かは不明ですね。
小川氏は「前段同様、目撃者の直話であると強調し真実味を持たせる」と注記しています。(p200)
この前段とは「平宣時朝臣、老の後、昔語りに」で始まる大仏宣時が北条時頼と味噌で酒を飲んだという非常に有名なエピソードです。
ま、そんな重箱の隅をつつくような話はともかくとして、私はこの第216段がいつの話なのかについて、かねてから疑問に思っています。
清水氏は引用部分の後に、

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 ところが、建長三年(一二五一)、そんな絶頂期の義氏を失意に陥れる一代スキャンダルが発覚する。嫡子泰氏の「自由出家」事件である。
 このとき所領の下総国埴生荘(現在の千葉県成田市付近)に滞在していた義氏の嫡子泰氏は、何を思ったのか、突然三十六歳の若さで頭を丸め、出家を遂げてしまったのである。当時、幕府の許可を得ないで勝手に出家することは「自由出家」とよばれ、重大な背信行為とみなされた。当然ながら、幕府はこれを許さず、罰として埴生荘は没収されてしまう。
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と続けるので、第216段は「自由出家」事件の前と考えておられるのは明らかです。
しかし、この事件の処理が一応終わって、足利家に平和が回復された後のエピソードと見ることも不可能ではありません。
あるいは、鶴岡八幡宮寺別当の四条大納言阿闍梨隆弁、即ち黒田智氏によれば「鎌倉幕府中枢にあって隠然たる権力を握った政僧であるとともに、京都の朝廷・摂関家との橋渡し役をも担っていた」高僧が「あるじ方の人にて座せられけり」という状況を考えると、このエピソードこそ、「自由出家」事件でぎくしゃくしていた北条得宗家と足利家のわだかまりをほぐす和解の場だったと思えない訳でもありません。
単純に年代の可能性を探るため、関係者の生没年を見ると、

北条時頼(1127-63)
足利義氏(1189-1254)
隆弁(1208-83)

ということで、足利義氏が没した1254年が最下限となりますね。
他方、1283年生まれ(推定)の兼好が、「その時見たる人の、近くまで侍りし」人から、何時この話を聞いたのかというと、まあ、どんなに早くても1300年、18歳くらいでしょうか。
そうすると、第216段のエピソードから少なくとも46年は経過しており、「その時見たる人の、近くまで侍りし」人は相当の高齢者ですね。
ま、もう少し検討してみたいと思いますが、四条家と足利家を結びつけたのは足利義氏の娘で、四条隆親(1203-79)の正室となり、四条隆顕(1243-?)を産んだ女性ですから、四条隆顕、即ち顕空上人も「その時見たる人の、近くまで侍りし」の候補者にはなりそうですね。
四条隆顕の孫の四条隆資(1292-1352)は『徒然草』第219段に登場する「四条黄門」ですから、兼好と直接の面識があっても全く不思議ではなく、また京と鎌倉を往来していた兼好が、同様に京と鎌倉を往来していた顕空上人と知己であっても、これまた不思議ではないと思います。
ま、年齢は40歳くらい離れていますが。

>筆綾丸さん
>正中の変に関する河内説
人権感覚がない中世の警察関係者はバシバシ拷問できた訳ですから、冤罪をつくり出す方向での行き過ぎは多かったとしても、現実に存在した犯罪を見逃す方向で捜査を誤るというのは変な感じがします。
容疑者を片っ端から拷問にかけたけれども、結局、後醍醐の関与を裏付ける証言も証拠も得られなかったという可能性も考えてよさそうですね。

>元木泰雄氏の常軌を逸した批判
元木氏も無駄に熱いところがありますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。」
「人間喜劇(?)」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9160
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