学問空間

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0063 苅部直『丸山眞男─リベラリストの肖像』の憂鬱(その1)

2024-04-13 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第63回配信です。

前回配信から五日間経過。
この間、赤江達也『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』(岩波新書、2017)を再読。
ついで丸山眞男『日本の思想』(同、1961)を数十年ぶりに眺め、更に苅部直『丸山眞男─リベラリストの肖像』(同、2006)を読む。

赤江達也『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』(2017年06月23日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8e1434fba167e6025a9abb410e85908e

「おわりに」p238以下
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 ただ、敗戦直後の時期に、矢内原の「キリスト教ナショナリズム」が、戦後日本が目指すべき理想のひとつとしてスムーズに受け取られていたようにみえるのは、やはり驚くべきことである。
 アメリカによる占領や「キリスト教ブーム」といった状況を考慮しても、日本においてキリスト教が圧倒的な少数派であるという条件は基本的に変わっていないからである。
 矢内原のキリスト教が受容された文脈を理解するには、丸山眞男の議論が参考になる。
 丸山は、『日本の思想』(岩波新書)のなかで、日本の知的風土における「精神的雑居性」を指摘しつつ、例外的な「原理」として、明治のキリスト教と大正末期以降のマルクス主義を挙げている。丸山によれば、キリスト教とマルクス主義は究極的には「正反対の立場」であるが、日本において「共通した精神史的役割」を担ってきた。
 丸山自身の論旨からはやや外れるが、「精神的雑居」状態にある日本の知的世界に「原理的なもの」を導入しなければならない、という問題意識は、戦後日本の知的世界においてかなり広く共有されていた。それは、日本の近代化のためには、なんらかの「原理的なもの」─なんらかの普遍性─が必要かもしれない、という不安とも表裏をなしている。
 こうした戦後日本の知的風土のなかで、矢内原の「キリスト教ナショナリズム」は一種の日本近代化論として受容される。矢内原の主張は、正確にいえば日本近代化論とキリスト教的終末論が結びついたようなものである。だが、矢内原が苛立っていたように、その言論はしばしば「キリスト教抜き」のかたちで受容された。
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丸山眞男『日本の思想』(岩波新書、1961)

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現代日本の思想が当面する問題は何か.その日本的特質はどこにあり,何に由来するものなのか.日本人の内面生活における思想の入りこみかた,それらの相互関係を構造的な視角から追求していくことによって,新しい時代の思想を創造するために,いかなる方法意識が必要であるかを問う.日本の思想のありかたを浮き彫りにした文明論的考察.

https://www.iwanami.co.jp/book/b267137.html

p13以下
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その㈡──思想受容のパターン
【中略】
 異なったものを思想的に接合することを合理化するロジックとしてしばしば流通したのは、周知のように何々即何々、あるいは何々一如という仏教哲学の俗流化した適用であった。ところがこのように、あらゆる哲学・宗教・学問を─相互に原理的に矛盾するものまで─「無限抱擁」してこれを精神的経歴のなかに「平和共存」させる思想的「寛容」の伝統にとって唯一の異質的なものは、まさにそうした精神的雑居性の原理的否認を要請し、世界経験の論理的および価値的な整序を内面的に強制する思想であった。近代日本においてこうした意味をもって登場したのが、明治のキリスト教であり、大正末期からのマルクス主義にほかならない。つまりキリスト教とマルクス主義は究極的には正反対の立場に立つにもかかわらず、日本の知的風土においてはある共通した精神史的役割をになう運命をもったのである。したがって、両者ともひとしく、もし右のような要請をこの風土と妥協させるならば、すくなくも精神革命の意味を喪失し、逆にそれを執拗に迫るならば、まさに右のような雑居的寛容の「伝統」のゆえのはげしい不寛容にとりまかれるというディレンマを免れないのである。(ここでは国家権力との関係ではなく、もっぱら思想のうけとり方や交通の仕方を問題にしている。「國體」の問題はすぐ後にのべる。)あるマルクス主義からの転向者が書いた左のような一節は、「転向」が原理(=公式)による自己制御の緊張からの離脱であり、あたかも強靭に巻かれたゼンマイが切れたように、「思い出」を通じて抱擁と融合と一如の「本然」世界へ一挙に復帰する意味をもったことをものがたっている。「日本哲学は物心一如の世界である。……我々はマルクス主義を清算したときに、また日本民族の抱擁性を把握したときに、世界に於ける日本民族の新使命を自覚するであろう。……而して東西文化の融合の将来の発展─それは我々の新しい信念とならなければならない。」(小林杜人編『転向者の思想と生活』四八‐四九頁)。
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『転向者の思想と生活』(大道社、1935)
小林杜人(1902-84)

坪井秀人(1959生、国際日本文化研究センター名誉教授)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%AA%E4%BA%95%E7%A7%80%E4%BA%BA
https://www.nichibun.ac.jp/ja/research/staff/s150/

「転向を語ること ─ 小林杜人とその周辺」, (Diego Cucinelli and Andrea Scibetta, eds.)『Tracing Pathways 雲路 : Interdisciplinary Perspectives on Modern and Contemporary East Asia』, Firenze University Press, 2021年03月, pp.67-88
https://library.oapen.org/bitstream/id/7c9abdf5-1bfd-4df4-bc04-01f2aa03513a/15623.pdf

苅部直『丸山眞男─リベラリストの肖像』(岩波新書、2006)

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近代的理念と現代社会との葛藤をみすえつつも,理性とリベラル・デモクラシーへの信念を貫き通した丸山眞男.戦前から戦後への時代の変転の中で,彼はどう生き,何を問題化しようとしたのか.丸山につきまとうできあいの像を取り払い,丸山の遺した言葉とじかに対話しながら,その思索と人間にせまる評伝的思想案内.

https://www.iwanami.co.jp/book/b268831.html

苅部直(1965生、東京大学教授)

「皇国史観による武家政権観の臭味を帯びない表現を採用」(by 苅部直)(2017-07-22)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3e7d16b53c4196faa65ea0bea225418

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