投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 2月11日(水)12時59分18秒
2012年末に開催された歴史学研究会創立80年シンポジウムの発表をベースとする『歴史学のアクチュアリティ』(東大出版会、2013)、今ごろ通読してみたのですが、北海道大学教授・長谷川貴彦氏の「現代歴史学の挑戦:イギリスの経験」は、ちょうど自分の現在の関心にぴったりだったので、非常に興味深く感じられました。
この本は全体的に決して悪くはないのですが、千葉大学教授・日本中東学会会長の栗田禎子(よしこ)氏の論文「現代史とは何か」の存在感は強烈で、ちょっとびっくりしました。
栗田氏によれば、現在の我々は「「新自由主義」と「対テロ戦争」の名のもと、資本の論理によって世界が支配される時代、帝国主義の全面展開の時代」(p92)に生きているのだそうです。
「日本近現代史の基調低音としてのコロニアリズム」という標題の部分から少し引用してみます。(p90以下)
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今さらいうまでもないことだが、日本における近代国家建設・経済発展と、アジアに対する植民地支配とは、不可分のプロセスとして進行した。
国外における植民地主義は、必然的に国内の社会にもはね返り、(日露戦争→「韓国併合」→「大逆事件」という連関、あるいは治安維持法の成立過程に鮮明に表われているように)まさに侵略戦争や植民地支配の展開と軌を一にする形で、国内における非民主的体制が形成されていく。植民地支配は、日本における民主主義の(あるいは民主主義の不在の)歴史を根底で規定してきた要因でもある。
さらに、第二次世界大戦後の日本は、米軍によって国土の重要部分を占領され、アメリカの事実上の植民地となるに至った。歴代の政府はこの厳然たる事実から国民の目をそらさせ、その意識を眠り込ませようとしているが、「沖縄」問題、あるいは最近のオスプレイ配備問題といった形で、矛盾は絶えず噴出し続けている。現在の日本にとってコロニアリズムは、まぎれもなく自らに課された問題となったのである。
皮肉なのは、このアメリカによる植民地化という現在の事態が、まさに近代以降日本がアジアに対して行なってきた侵略戦争・植民地支配の歴史全体の結末、総決算としてもたらされた、ということである。そしてこのことは、第二次世界大戦後、他のアジア・アフリカ諸国では欧米の植民地支配に対する果敢なたたかいが実を結び、占領からの解放が勝ちとられて行ったのに対し、なぜ日本においては(民主勢力は一貫して占領からの解放を求めてたたかってきており、またその過程ではアジア・アフリカ諸人民との課題の共通性が認識・強調されてきたにもかかわらず)今もって米占領体制からの解放が実現しないのか、を考える上でも重要かもしれない。近代史上、インドにせよ中国にせよエジプトにせよ、占領され植民地化された国は多いが、これらの国々のように一方的に植民地化された場合と、日本のように自らが侵略戦争や植民地支配に邁進した末にその結果として外国支配下に陥った場合とは、質的に違うと言えるのではないか。一方的に植民地化された諸国民は、(その過程で人命・国土に筆舌に尽くし難い甚大な被害が及んだとはいえ)道義的には無傷である。これに対し、侵略戦争・植民地支配を行った挙句に植民地化された日本の場合は、いわばその近代史全体が道義的に破綻してしまっているので、解放のためのたたかいは屈折した、困難なものとなる。近代以降アジアに対する侵略や植民地支配を推し進め、他民族の主権を踏みにじってきた支配層が、第二次世界大戦後はアメリカによる占領体制に協力し、今度は自国民の主権を売り渡すという、倒錯した、「コロニアリズムの内在化」とも言える現象も生じることになる。
このような状況下でアメリカ占領からの解放を勝ちとるためには、われわれは、絶えず植民地主義と共にあり、またそれを内在化してきた日本の近現代史全体を、徹底的に批判し、乗り越える姿勢を持たねばならないだろう。
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栗田禎子氏によれば「アメリカ占領からの解放」は未だ実現しておらず、今後「勝ちとる」べき目標なのだそうですが、このような認識を共有されている方々は歴史学研究会の会員の中でどのくらいいるのでしょうか。
栗田氏は単なる一会員ではなく、歴史学研究会の機関誌『歴史学研究』の前編集長(2009~2012年)で、同会を支える中心的メンバーの一人であることを踏まえると、このような発想に同調する人は相当多いのでしょうか。
『歴史学のアクチュアリティ』