現実を受け入れる修行は何の為でしょうか?比較宗教学では何故、人が神の愛を感じないかを研究していきますが、この研究は治療においても相当役立っています。日常生活で物凄く疑い深い人間に遭遇します。その人は周囲の人々の親切、優しさ、愛を感じないのです。、悲劇的なのは五感と体感でそれらの友情、愛を感じない。愛の原型論、と言われている成育史上の問題をこの人は確実に持っています。普通の人は人の親切、愛情、友情は本能的に感じるように作られているのですが、何らかの成育史がその感性を曇らせているのです。現実を受け入れる能力は修行が必要なのですが、人は簡単に考えているようです。現実の生活に、大地に足をしっかりと立てて生きていかないと、この人生は砂の上に城を作るようなところがあるので危険です。現実を素直に一旦受け入れる力は度胸と勇気と知恵がないと出来ません。一番恐ろし現象がこの現実を受け入れない人は<理想と現実を混濁する心の病気>になりやすいのです。理想から人を裁いたり、自分を裁いて孤独になつていきます。孤独になれば寂しいので元気が出ません。自分を愛してくれる人をまずは五感と体感で認識し探してみましょう。愛されていない人はこの世にいません。しかし相手が暴力をふるう恐ろしい異性もいますが、この場合は離別する勇気も必要です。暴力を振るわれても、愛もあるので必死にくっついている人を見ると切なくなります。暴力を振るわないで誠実に愛してくれる異性も沢山います。自己愛パースナリテイ障害のような愛の病気もありますが、この場合は治療が大変です。まずは愛する関係における愛の現実から思索していきましょう。<あるがままを受け入れる:370-3>:
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