五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

奈良豆比古神社

2011年10月11日 | 第2章 五感と体感
今回の奈良の旅は、奈良豆比古神社の翁舞を拝見することが主な目的でした。

この奈良豆比古(ナラズヒコ)神社は、「いわばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいづる 春になりにけるかも」(万葉集)を詠った志貴皇子(田原天皇)を祀る神社です。志貴皇子は天智天皇の子であり光仁天皇の父です。延喜式神名帳(えんぎじんめいちょう)によると「771年正月二十日に奈良山春日離宮に祀る、つまり、奈良坂に祀る」と記されてあるそうです。

田原天皇は「春日宮天皇」として。高円山の裏「矢田原」に御陵があります。
この春日宮天皇には二人の子がおり、その子供が散楽俳優を好み、父の病を芸能をもって祈り治癒したことが、猿楽をこの神社から発達させたと言われています。

申楽・能楽・翁三番ソウの面は、ここからはじまったったとされています。つまり、能楽の源流である猿楽が、奈良豆比古神社で発達した、ということです。

毎年10月8日夜からの奉納「翁舞」は、保存会や町内の方々の尽力で守られており、国の無形文化財に指定されています。

奈良坂については、明日あたりに書こうと思いますが、歴史を語る上で見逃すことのできない場所に、この神社があることの意味を捉えつつ、奉納舞を拝見したことで、私の学びも一歩進んだように思います。

:樟(くす)の木:

平城京、遷都千三百年と同じくらいの樹齢とされる御神木の樟の木は、近づくことができないくらいの強い「気」です。神社の横を沿い、奥の森に入ろうとすると、山の西から冷たい空気が吹き流れ、そこから数歩歩くと、人を簡単には寄せ付けない磁気を感じました。まるで、プラスとプラスの磁石が互いを寄せ合わない感覚を身体で感じると、鳥肌が立ち、それが醒めるまで立ち竦むしか術がありませんでした。ひっそりと樟の袂に佇むために、きっとまたここを訪れると思います。

今日はここまで。^^//続きは明日・・・

「翁講・翁舞保存会の冊子参照」

奈良の旅:1

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我が身を見る

2011年10月07日 | 第2章 五感と体感
自分の能の仕舞いを見る勇気は、まだ芽生えません。
なぜなら、怖いからです。

自分の事実をこの目で見ることは「自分の出来ないところ、至らないところを見る」ということです。

まだ、その勇気がありません。

ぜったいに、へなちょこだと解っているから、もう少し、稽古を重ねてから、見ようとは思っています。

きっと、今の時点で、自分の姿をおさらいすれば、次回はもっと上手くなるとは解っていても、見たくないものは見たくないのです。

カウンセリングの学びでも、このようなことは日常茶飯事です。

自分の成育史を振り返り、自分の親のような子育てをしたくないという思いで、一所懸命、理想を実現するべく子育てしたり、
自分の成育史を否定しながら、自分が教育されてきたことと同じように子育てしていたり・・・

我が子に表出される現象(ストレス)の原因が、親のそのような思いからくるものだとしたら、子供のストレスに焦点を合わせるだけでは、解決には至らないように思います。

「自分を見る」という情動は、自己受容と共にやってくるようです。

私の仕舞いも、私の中にある理想に至らないことが気に入らないし、そんな自分を見たくもないから、自分で自分をチェックすることができないわけです。

自分の中にある「理想の美」に執着し希求していく怖さも知っているからだとも思います。

「何事も自然体で・・・なるがままに・・・」
そうなるまでには、まだまだ時間がかかりそう・・・

自分の仕舞いの姿は、自分の今の姿だ、ということはある程度受容しつつ、いつかは自然に我が身を見る日がくることを薄ぼんやりと期待しながら、稽古を続けさせていただきます。












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美しいもの

2011年10月06日 | 第2章 五感と体感
「美しい」と「綺麗」

「綺麗」は「美しい」に含まれている表現だと思います。

[美しい] ⊃ [綺麗]

利休の茶室の庭に咲いた朝顔が見事だと聞きいた秀吉が、朝顔の花見の茶会を望みます。
秀吉が庭に咲く朝顔を楽しみに出かけると、朝顔はすべて切られ見当たりません。
茶室に入ると、そこに一輪の朝顔が活けてありました。

「綺麗」は「美しい」に含まれている典型的なお話のように思います。

日本人のもののあわれの精神から見えてくる「わび」「さび」は、ある意味、教育的な哲学を突き詰めていかない限り、なかなか行きつかない精神性のようにも思います。

身を削るような単調さに「美しさ」を心の底から感じるようになるための修業が「道」の世界の生き方なのかもしれません。

抑制の中から見出すものを美と仮定するならば、表現されたものに裏打ちされた背景の宇宙的広さを感じる事自体が美であるといえそうです。

ハプスブルグ家の求めた美よりも一輪の朝顔に美を求めた利休のほうが一本上手かもしれない、とふと、思った秋の朝・・・

枯れた花を愛でる日本人の美意識を私の中から探していくのが、私の人生かもしれません。

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自分のストレスは何で発散しているか?

2011年10月05日 | 第2章 五感と体感
昨日の腰越勉強会は、お天気に恵まれ、爽やかな空気に包まれながら、和やかに行われました。

私にはストレスが無い。
私には不安なことが無い。
私には怖いものは無い。
ストレスが何か解らない。
不安がいくつあるか、数えたこともない。数えられない。

勉強会に参加したばかりで平素、自分の感情について考える機会を持つことがなかったり、抑圧が深かったりすると、このような言葉に出合ったりします。

自分の感情を無理やりこじ開けて、出させるようなことはしてはなりません。

自分の今の感情を、そのまま湧き立たせ、意識化することに意味があるようです。

「自分にはストレスが無い」と感じるのであれば、その感情を大切にしていきます。自分がそう感じるのですから、感じていることを無理に疑う必要はないのです。

さて、
昨日の勉強会は「フロイトの防衛機制」を利用しながら、自分のストレスはどんな防衛機制なのかを、いろいろな視点で自己分析していくロールプレーをしました。そして、どのような防衛機制を使って発散しているのか言語化していきました。

他者を中傷することなく、にこにこと和やかに行われる勉強会だからこそ、皆さんが気持よく考えることができるのです。
眉間にしわを寄せて、重箱の隅を突くような勉強会では、ここまでの学びはできない、としみじみ思います。

またまた、ご師匠様に感謝しつつ、世話人修業を積まなくては、と感じた勉強会でありました。


☆追記:14の防衛機制については2009年9月末に二週間かけて一つ一つ書いております。

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繰り返すと見えてくる

2011年10月03日 | 第2章 五感と体感
毎日同じお経を唱えたり、毎日同じ祈りを唱えたりしていると、その日の気分や状況によって、祈りの中から湧き出してくる感情は違います。

同じことを繰り返すことの喜びは、案外身近なところにあるかもしれません。

朝起きて、家族と「おはよう」と言葉を交わし、朝ご飯を食べ、それぞれの役割を果たし、一日を終えます。
いつもと同じ日々を繰り返していることに、もし虚しさがあるなら、毎日同じことを繰り返していることの何が不満で何が不安なのかを繰り返しの中から意識化してみると良いかもしれません。

戦争もなく、自然災害に襲われることなく、天候が安定し作物が例年のように実のり、家族がいつものように元気で、自分自身も毎日同じ家事や仕事を繰り返し…。この当たり前のような繰り返しが一つでも当たり前でなくなった時に、同じことの繰り返しの生活のありがたさに気付きます。

平素の生活の中にある普段通りの繰り返しに喜びを感じてみると、いかに自分が幸せかが見えてきます。

週末は二日間続けて、能楽の発表会でした。お手伝いしたり、謡いの連吟や地謡で舞台に立たせていただいたり、参加者の皆様の舞台を拝見させていただいたりしながら、稽古を繰り返すことから見えてくるものも、年を重ねるごとに違ってくることにも気付き始めました。
今までの一喜一憂とは、ちょっと違います。謡っている間、自分のできていないところがやたらと耳に付きながら、次への課題を考えている自分が居たりします。

「希求」することと「身の丈」の差を思い知りながら、「次へ」の稽古が無性にしたくなっています。

無意識に自分に課題を課す思いが自然に湧き出すことも、今まであまりなかったことです。
稽古を始めて四年目に入り、三年間ひとくくりの経験の中で、自分の中の尺度が生まれてきたのかもしれません。

これだから「人は面白い」…

繰り返しの中から生まれてくる感情に耳を澄ませ、体感を大切にしたいものです。

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自覚と解放と受容

2011年10月01日 | 悔いのない人生とは?
自分は今、怒っている。

自分は今、無性に腹立たしい。

自分は今、とても喜んでいる。

自分は今、飛び上るほど、嬉しい。

自分は今、泣きたい。

自分は今、もどかしさでイライラしている。

・・・・・・

感情は曼荼羅のようです。確かにユングは「感情の曼荼羅」という言葉で表現しました。
身体は有限ですが、心には無限の広さを感じます。

無限の広さであるにも関わらず、三畳くらいの部屋の片隅で動けないで居る自分が居たりします。


そうはいっても、今、湧き出している感情を意識しているとしたら、自分を解き放つ準備ができている証拠かもしれません。
今、「この時の感情を意識化」することと「気付き」は、とても近いところにあるように思います。

感情を自覚することは、自らを解き放つことでもあり、受容でもあるように、いつも感じます。

自分の「感じ方」傾向に意識を向けてみることが、自覚と解放と受容への近道と言えそうです。

心には無限の広さと可能性があるのです。

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