歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

志村坂下・蓮根町 ⑭ 懐かしの氷川神社で!幼稚園に!コヨリに!お祖母ちゃんに!思いを巡らします

2017年03月20日 | 東京の風景

志村坂下を、蓮根町を、まだまだ歩いています。

やぶ岩で550円のタヌキそばを食べ終わり、目指すは氷川神社です。

このバス通りは、十数年前までは、年に一度か二度は車で通り過ぎる事がありました。車窓からチラチラと横目で景色を懐かしんでいました。

そして、本日、ゆっくり、ゆっくり、懐かしのあの頃に思いを巡らし、想い出に浸りながら、歩きまわります。

この交叉点の、角から二軒目のビルは、小学校の同級生の「やまぐちクン」の家です。

「ヒコー堂 山口書店」彼の家は、昔から文房具と本を商っていたのです。私の方は山口クンを記憶していますが、山口クンは間違いなく私の事を記憶していない筈です。真ん中の子が山口クンです。

店の前には池袋行きのバス停がありました。このバスに乗って池袋のデパートに行って買い物して、大食堂で「お子様ランチ」を食べるのが、当時、我が家の一大イベントでした。今は何処行きのバスが通っているの?

あの頃、東口には三越、西武、丸物が、西口には東武と、4つのデパートが池袋にはありました。三越は何か高級そうで縁がありませんでした。西武と丸物が行き付?でした。

いまでもあの頃のデパートの夢を見ることがあります。屋上の遊園地にお子様ランチは、とてつもなく心躍らす夢と感動の世界だったのです。

神社を目指して、大東文化大の方向に歩きます。

見えて来ました。

変わらない風景です。

 大正13年(1924年)にこの地に「還座」したようです。そうすると、私が子の地に生まれたのが1950年ですから、私よりも26年先輩なのです。と云うことは、あの当時はそんなに古くは無かったのです。

この佇まい、そう、こんな感じです。

この石畳に石橋、とても、とても、何か、落ち着いてしまうのでした。ひんやりと湿っていて、苔のような神社の匂いを感じます。

本殿?拝殿?は鉄筋コンクリート製で新しそうです。

実は、実は、わたくし、そのむかし、この本殿の前で記念撮影をしているのです。

幼稚園の頃の写真です。全員紙で折った兜を被っているので端午の節句、こどもの日の記念写真のようです。 

あの頃の私にズームアップします。

 

なかなかの面構えです。とても、とても、悪戯小僧だったようです。

この頃、親爺の自動車修理工場の景気がよかっようで、長屋住まいの身には、幼稚園は身分不相応だったのです。たぶん一年ほどしか通わなかったと記憶しています。

それで、幼稚園と云うと、今でも、時々思い出すと、とても、とても、とても、悲しくも寂しい、胸キュンの想い出があるのです。

当時、幼稚園の送り迎えは父の母(私の祖母 )がやっていました。父は母親が50代前後にできた子供で、当時は80歳近かったと思います。いつも着物姿でした。

ある日、幼稚園に行く途中で、私が突然思い出したのです。前日に先生から「明日は“???”を一本持ってきましょう」と云われて、細い紙の紐を見せられたのです。

今にして思うと、それは、当時、ホッチキスの無い時代、閉じ紐として、事務用品として、閉じ紐として、一般的に良く使われていた「コヨリ」だったと思います。

私はもちろん、事務用品とは無縁なお祖母ちゃんも、コヨリなど知らなかったのです。知らない人が、知らない人に説明するのですから、これは、もう、絶望的。

祖母には、よく判らない言葉で「細い紙の紐」を何とか説明しようとしたのです。祖母は胸元から取り出した、鼻紙にする新聞折り込みチラシをぐグシャグシャと棒状に丸め、見ていた私は、違う!違う!と叫び、祖母は困惑し、悲しそうな顔をして・・・・・・・。

この後の、顛末は、まったく記憶に残っていません。きっと、きっと、悲しすぎる結末に、子供ごころに、自己防衛の為に、記憶を消し去ったのだと思います。

いまでも夢に見ることがあるのです。おばあちゃん!ホントに!ゴメンなさい!

話しを変えます。氷川神社でした。

最近はやりのポリエチレン製のしめ縄。稲藁に意味があると思うのですが、これがご時世?、神様もそれなりに妥協し納得?

とにかく、氷川神社で、幼稚園で、紙の閉じ紐で、おばあちゃん、ゴメンなさい!なのでした。

それにしても、幼稚園でコヨリは、いったい、何に使ったのでしょうかね。

今日は、これまで。

次回が最終回です。

それでは、また。

 

 

コメント (3)
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