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近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

“15歳の志願兵“ ② 昭和18年は“大平洋戦争末期”ですか?

2010年09月06日 | テレビの話し
先週の続きです。

前回載せた“15歳の志願兵“のHPの文章なのですが、ちょっと、気になる事が少しあるのです。

【NHKのHPより転載】

    太平洋戦争末期、昭和18年(1943年)7月5日。愛知一中の決起集会で、
    全校生徒700人が戦争に行くことを決めた。エリート中学生のこの決断は
    大々的に報道され、全国の少年たちの心を戦場へと突き動かした。だが
    その裏には、中学生を戦場に送ることによって兵士不足を解消したい軍部
    の思惑があった。
    軍部が学校に圧力をかけ、中学生を「軍国少年」に変えていった真実が今、
    明らかになる。
    戦争に飲み込まれていく少年たちの青春、夢や友情、そして、少年たちを
    戦場へ送らざるを得なかった教師や親達の苦悩や葛藤、時代に翻弄されて
    いく人間たちを鮮烈に、詩情豊かに描いていく。
    戦後65年目を迎える2010年のNHKスペシャル終戦特集ドラマ。

それで、気になるのは、先ずは、「太平洋戦争末期、昭和18年(1943年)7月5日」とありますが、「太平洋戦争」と聞くと、昭和16年12月8日、真珠湾攻撃の対米戦争の開始から、昭和20年8月15日の敗戦までの期間をイメージします。

16年から20年ですから、18年を“末期”と云うのは、何となく抵抗があるのです。どちらかと云えば、単に期間としては真ん中あたりで、中間期だと思うのです。

私としては、これまで、中国大陸での日中戦争があり、太平洋の島々でのアメリカと、東南アジア、インドでのフランス、イギリス、オランダ、オーストラリアとの太平洋戦争があったと理解していました。

日中戦争と太平洋戦争をあわせって、アジアでの「第二次世界大戦」だと理解していました。ですから、“太平洋戦争末期”ではなく、“第二次世界大戦末期”との記述の方がイイと思うのです。

それでェ、調べてみたら、戦争の名称には、それぞれの立場で、それぞれの名称を主張していたのです。

知らなかったのですが、戦争の呼称は、真珠湾攻撃の2日後の12月10日、「大本営政府連絡会議」によって決定され、その2日後に閣議決定されたそうなのです。

驚きました、戦争の正しい呼び方は、何と閣議で決まるのでした。それで、正式な呼称は“大東亜戦争”でした。それと、そのときの閣議決定で、支那事変(日中戦争1937年~)をも含むと決められたのです。

それと、“大東亜”なんですが、“大”きな、“東”の、“亜”細亜で、大東亜なのでしょうね。あの頃は、どこでも、何でも“大”を付けたがったようです。

「大東亜戦争」を陸軍が主張し、海軍は「大平洋戦争」の呼称を主張したそうで、大東亜と決まった後でも、海軍内部では大平洋戦争と云っていたそうです。海軍はやはり海に拘っていたようです。

海軍の「大平洋戦争」の呼称には「日中戦争」は含まないそうです。海軍は、大陸の戦争には、あまり関心なかったようです。

NHKのHPで「大平洋戦争」と記述したのは、昭和12年の日中戦争を含めた「大東亜戦争」をイメージして、12年から20年ですから、18年は「末期」との表現になったと思います。

でも、しかし、日中戦争を含めて「大平洋戦争」と呼称したのは、占領期GHQの検閲で「大東亜戦争」表現を禁止し、その代わりに「大平洋戦争」とした事によるのです。

「大東亜戦争」の「東亜」と云う言葉に、単に地理的概念だけでなく、戦争の正当化を含んでいると解釈したのでしょう。“大東亜共栄圏とか、大日本帝国とか、神国とか、八紘一宇とか、鬼畜米英とか、軍国主義”とかに、繋がるイメージを嫌ったのでしょう。

日中戦争を含んだ「大平洋戦争」の呼称は一般的ではなく、敗戦後の、占領期に、占領軍によって、一時的に使用させられた表現だったようです。

“戦後65年目を迎える2010年のNHKスペシャル終戦特集ドラマ”の番組宣伝の紹介文として、あまり適切ではなかったのでは?と、やはり、ここは、「第二次大戦末期」とすべきだと、思ったりしたのです。

まだ、ちょっこし話が残っているので、いったんここで終わりにします。

それでは、また明日。




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