歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

映画 “ かあちゃん ” で想いめぐらず

2010年03月18日 | 映画の話し
“吉永小百合の母べえ”に続いて、“岸恵子のかあちゃん”を観ました。

原作があの「山本周五郎」で、監督があの「市川崑」で公開が2001年です。

いゃ~、もう、ホントに驚いた映画でした。善人しか出て来ないのです。



何か、とても、退屈なストーリーで、観るのをやめようかと何度も思いながら、結局は最後まで観てしまいました。

観ているうちに、何か、これには“裏”がある、絶対そのうち“どんでん返し”があるはずだと、そんな思いで見続けたのですが、ナニもありませんでした。


兎に角、貧乏しながら、一家そろって他人を助ける為に、お金を貯めてたり、家に入った泥棒まで家族として受け入れ更正させてしまうのです。


「子が親を殺し、親が子を殺す現代。こんな時代にこそ意味がある作品」と主演の岸惠子が語ったそうなのですが、ここまで、ストレートにいい人だらけで、ホントにイイの?と思ってしまいました。

“社会が信じられなくても、人を信じれば、人はきっと前向きに生きていける”ことを描いたようなのですが、観る人の“汚れ具合”で、印象が大きく変わる作品なのでしょう。

私のような、社会の垢にまみれた人間は、最後の最後まで、何か、きっと、裏があると思いつつ観ていたのです。

でも、ほんのすこしだけ“裏”がありました。やっぱり、かあちゃんは助ける相手を、それなりに選んでいたようなのです。

あまりにも親切過ぎる行為に疑問を抱く泥棒に、倅が、長男の友人にも、泥棒にも、“耳にホクロ”があり、実は、父ちゃんにも耳にホクロがあったと云うのです。

助ける相手は誰でもよかった訳ではなく、亡くなった亭主への想いが絡んでいたようなのです。これを聞いた泥棒も安心し、映画を観ていた私も、“そうか、やっぱりそうか”と、安心したのです。

これを観て、みんな人を信じるようになるかは、私には判りませんが、まぁ、そこそこ、こころ暖まる作品でした。


それでは、また明日。




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いろいろな事が起こりそうな予感

2010年03月17日 | 雑談
外は太陽が雲に隠れ、薄暗い灰色の空、とても寒いです。

昨日は、暖かいどころか、暑いくらいだったのに、一日でこの変化、でも、身体の方は、まだ何とかついていけそうです。

桜の開花が待ち遠しくなりました。歳を重ね、人生も秋にさしかかると、春の訪れは待ち遠しくなるようです。これまで撮った桜の花を眺めながら、今年は何処にしょうか?と考えてみたり。

今日は寒いけど、いろいろあって暫く自転車に乗っていないので、午後から近所を走ろうかと考えたり、天気が良くないと、気分もそれなりだったりして。

それで、朝青龍の居ない大相撲が始まりました。楽しみは「把瑠都」だけです。3日間の取り口を見ると、13勝以上は間違いなさそうですから、大関取りは期待できそうです。

それにしても鳩山サンはかなり期待はずれ、でも、もう少し我慢して見守って行こうかと思ってみたりしているのです。まぁ、私が見守ってもどういう事も無いのですが。

どうも、普天間の海兵隊基地は「閉鎖返還」から、辺野古移転話になり、移転話の裏に、空軍の嘉手納基地、海軍の那覇軍港、海兵隊の普天間を統合した、新たな、巨大米軍基地計画があるとの噂が、ちらほら、明らかになりつつあったりして。

アメリカが辺野古に拘るのは、そんな裏があるとの事、鳩山さんは3月中に政権内部の意見を集約し、5月にはアメリカと最終的な合意を成立させるようですが、県内移転は両国が合意しても、きっと沖縄県民が認めないでしょう。

もしかして、今年の夏は、沖縄が“暑く”なりそうな・・・・・・、歴史の大きな転換が、沖縄から起きそうな、そんな気がしつつ、テレビ新聞を眺めたり。

今年は、これから、いろんな事が起きる予感がするのです。把瑠都も大関に昇進し、その後二場所連続優勝して、史上初の“茶髪横綱”が誕生するかも知れません。いろいろ起きる、2010年の寅年。

カーテン越しに陽が射し込んで来ました。午後から、近所を久しぶりにひとっ走りです。


それでは、また明日。



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映画 “ 母べえ ” で想いをめぐらす⑤ -公式的反戦映画-

2010年03月16日 | 映画の話し
前回が3月11日ですから、5日ぶりの再開です。

何か、もう・・・・・・・、ですが、中途半端に終わるのも何となく気持ち悪いので、今日でキッパリと締めます。

まぁ、それで、「母べえ」ですが、「父べえ」が獄中で肉体的、精神的な苦痛を強いられている間、教え子の「山チャン」が、時々一家を訪ねて来ては、男の居ない暮らしを、それなりに、いろいろ、助けられたり、助けたり。

そして、「山ちゃん」と「母べえ」の、ほのかな、ほのかな、愛とか、


家族と海水浴に行って、


山ちゃんが溺れ、母べえに助けられたり。


治安維持法で逮捕された「父べえ」の居ない生活、それでも、それなりの日常生活を時には楽しむ残された家族。でも、この海水浴シーンは、何かストーリーの全体からして、とても違和感がありました。

溺れた「山ちゃん」に向かって颯爽と泳ぐ「母べえ」の姿は、どう見ても“水泳好き”の「吉永小百合」がそのまんま出ていたように見えてしまう、不自然なシーンでした。

映画の観客に“泳げない山ちゃん”を記憶させ、後半、山ちゃんの乗った輸送船が敵に撃沈され、海中に没し死んで行く伏線として描いたとしても、何か、ねェ? でした。

そして、お正月に届く、


父べえ急死の電報。


死の知らせの後、父べえから届いた最後の手紙。


それにしても、原作では、獄死せず、「母べえ」よりも長生きした「父べえ」なのです。まぁ、戦前戦中の治安維持法の残虐性を強調する意図なのでしょう。原作はあくまでも“原作”であり、映画は映画ですから。


そして、敗戦、女手ひとつで、苦労して二人の子供を育てた母べえ。


それで、何ですが、戦後の“苦労した母べえ”を描いたシーンはこれだけです。思えば、父べえが獄中に居た時も、残された母べえの苦労を描いたシーンがあまりないのです。

山ちゃんとの淡い恋を描いたシーンは沢山あるのですが、何故か少ない苦労シーン。やはり、吉永小百合には苦労シーンは似合わない?

それと、「母べえ」と「父べえ」との“繋がり方”を、あまり描いていないのです。二人りが、どのように出会い、どこに惹かれ、どう結ばれたのか、ここらを描いたシーンがあった方が、と思ったのです。

「父べえの悲劇」に、“巻き込まれた”母べえと子供達の悲劇。父べえの悲劇の方が、映像的に強烈であった為、母べえの悲劇があまり感じないのです。

タイトルが「母ぺえ」ですから、母べえが主役なのでしょうが、どうも、何か、中途半端なのです。

治安維持法の残虐性、不当性を強調し過ぎて、母べえの描き方が薄っぺらに見えてしまうのです。

監督の反戦平和への意識が強すぎで、力み過ぎで、単純過ぎで、直接的過ぎて、山田洋次の作品としては、失敗作の気がします。

そして、ラストの、


このシーンは要りません。


最後に、父べえの最後の手紙が、父べえの声で流れるのですが、痩せた細った母べえを苦しめた“体制”に抗議する内容だけだったのです。

でも、しかし、人間として、夫として、父親として、家族を正しいと信じる思想の為に、苦しめた責任に対して、ほんの一言、償いの言葉があってしかるべきだと思うのです。

あまりにも、あまりにも、公式的過ぎる言葉でした。

あまりにも、あまりにも、公式的過ぎる映画でした。

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忙しく、騒がしく、寝不足

2010年03月15日 | その他
先週の末から、忙しく、騒がしく、寝不足です。

12日が従弟のお通夜で、家を3時に出て、9時頃に帰宅。

13日が告別式で、家を7時半に出て、5時頃に帰宅。

14日は、以前より予定していた、早めのお彼岸の墓参りで、家を8時に出て、2時過ぎに帰宅。

3日連続の外出は、たぶん、退職してから初めてだと思います。退職してから、何年経ったのか?忘れてしまいました。

そして、今朝の、夜が明ける前の、4時過ぎの、火事騒ぎです。

2時に起きて、朝刊を読み、疲れていたせいか、一面を読んだところで、ウトウトしていたところ、消防車のサイレンが聞こえてきたのです。

何処か ?近所で火事? 寝ぼけ頭で遠くのサイレンを聞いていたのですが、サイレンは遠ざかる事なく、段々と大きく近づいて来るのです。

もしかして?と思い、北側の小窓から裏を覗くと、我が家の裏を赤いランプを点灯した消防車が、サイレンは鳴らさずに、何故か?ゆっくりと、通りに向かって動いて行ったのです。

我が家の一画は、40軒ほどの住宅があり、袋小路になっているのです。もしかして?消防車が道を間違えて袋小路に入り込んだの? でも、まさか、いくら何でも、消防車が道を間違える筈は、と思いつつ、寝床に入ったのです。

ところが、直ぐに、一旦、消えかけたサイレンの音が家の南側で鳴り出し、こちらに近づいて来るのです。サイレンの数も増え、消防車の台数が増えているようなのです。

心配になり、南側の障子を開け、ガラス戸を開け、雨戸を開け、辺りを見回すと、東南の方向、直線で20㍍先の家の屋根から、白い煙が立ち上り、辺りが赤く照らされているのです。

エッ! これって火事! じゃ、もしかして、さっきの消防車、気付かないで、帰ったの? そんな馬鹿な!

慌てて、パジャマの上に綿入れを羽織り、“現場”に向かったのです。歩いて1分ほどの距離、消防車が一台、赤い回転灯が辺り照らし、傍らには消防士が一人、でも、何か、緊迫感が無いのです。

屋根から上がっている様に見えた煙は、その先の草むらからだったのです。火事!と思った家の奥さんも出て来て、“草が燃えていたようです”と話してくれました。

ナ~ンダァ! モゥ~!、夜明け前のこんな時間に、人騒がせなこったァ! 悪戯? 焚き火の消し忘れ? どちらにしても、かなり不安です。

そして、いま、これを書くために、“現場”を確認しに行ったところ、その場に居た、近所のおじさんの話から、事実関係が判明しました。


草が燃えていたのは、住宅地の一画から少し離れた、一段下がった荒れ地の一画で、畑で野菜を作っている“お爺さん”が、古くなった支えの篠竹を燃やしていたそうです。

辺りに燃え移った訳でもなく、お爺さんは脇に消火用の水を用意して、篠竹を燃やしていたそうです。その光景を、50㍍ほど離れたの荒れ地の反対側の道を、たまたま散歩していた人が、火事と思い消防に通報したそうです。

しかし、夜も明けぬ、早朝の4時頃に、畑仕事で篠竹を燃やすお年寄り、そして、夜も明けぬ、早朝の4時頃に、荒れ地の脇を散歩する、たぶんお年寄り?

歳をとると朝が早いのです。私も、毎朝、2時に来る朝刊配りのバイク音を寝床で待ち、投函されたら直ぐに取りに行き、2時間ほど寝床の中で読み、6時過ぎまでもう一度寝るのです。

でも、しかし、今朝は、火事騒ぎから寝ていないのです。眠い!でも、なかなか、寝られない。

それにしても、一階で寝ている母は、まったく、この火事騒ぎに気付かず寝ていたのでした。これは、これで、また、チョット心配。


そんな、こんなで、“母べえ”の話は次回。


それでは、また明日。







  
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皮膚癌?それとも単なる老人性イボ?

2010年03月12日 | その他
気にはなっていたのです。

“イボ”の存在に気付いたのは、たぶん2~3年まえぐらいだったと思うのです。最初はあまり気にならなかったのです。

場所が左胸の、乳首の、斜め左下あたりでしたから、鏡に写すとか、胸の“筋肉”を引っ張りあげるとか、意識して見ないと気付かない場所でしたから。

円形で大きさは、直径が5~6㎜で、高さ2~3㎜で、色は焦げ茶色です。それが、ここ数ヶ月と云うか、1~2ヶ月と云うか、段々と高さが高くなり、4~5㎜程度になってきて、それなりに気にはしていたのです。

ネットでいろいろ調べて見ると、これは“老人性イボ”に間違いない! とは、思ったのですが、でも、どのサイトも最後に、悪性腫瘍の可能性も“0”では無い!との記述があり、それなりに、その可能性を心配していたのです。

そんな、もしや?の日々をおくりつつ、今週の水曜日の朝、寝起きのボンヤリとした意識のなか、イボの存在も忘れ、痒くなり、何気なくパジャマの上から引っ掻いてしまったのです。

朝起きると、ふつうの人は、あくびをしながら、何気なく身体を掻く物ものです。掻き終わり、暫くして、そろそろ着替えでもと思って、パジャマを脱ごうとしたら、胸の辺りが、“ヒリヒリ”するのです。

もしかして? イボを掻きむしったか? 手鏡で様子を見ると、イボが三分の一ほど“剥がれ”て血が滲んでいたのです。パジャマには直径1㎝ほどの“血痕”が付着していました。

この際、一気に引きちぎってしまうか? それともハサミで切り落とすか? それとも、このまま状態で暫く様子を見て、自然に脱落するのを待つか?

いろいろ考えたのですが、悪性腫瘍の可能性も捨てきれず、自分で取り去る勇気もなく、ここはやはり専門家に任す事にしました。近くの皮膚科を探すと、水曜日はどこも休診なのでした。

キズ傷口にオロナイン軟膏を塗り、カット絆を貼り付け、もしかして、悪性腫瘍かも? 良性の“老人性イボ”であっても、切り取られりしたら、それなりに痛いのでは? 等と、考えつつ一日を送ったのです。

まぁ、そんなこともあり、水曜日はプログの更新ができなかったのでした。

そして、木曜日、午後にしようか? 午前中にしようか? 迷ったのですが、早いところ、けりをつけようと、10時の開院に合わせて家を出たのです。

皮膚科に着いて、初めてですか?と聞かれ、ハイと答えて、差し出された用紙に住所、氏名、年齢、性別、電話番号を記入し、保険証をと一緒に提出。

15分ほど待って名前が呼ばれ、今度は中待合い室に移動、ここでも15分ほど待機。どんな処置方法なのか? 悪性だったら? かなり痛いのか? いろいろ想いを巡らし待っていたのです。

名前が呼ばれ、診察室に入り、シャツを捲り上げ患部を見せつつ「悪性かなァ~、何てことも、思ったりしたのですが?」「これは老人性イボです、悪性ではありません。日本人には皮膚癌は滅多にありません」との、医者の診断結果。そうだろう、そうだろう、と、先ずは安心。

どうやって取るのかと思っていたら、やっぱり“液体窒素”でした。看護師が業務用生ビールのボンベ位の容器から、プラスチックのコップ程度の容器に液体窒素を入れます。

ベットに寝かされ処置を待っていると、その時、医師が看護士に“蓋を絞めたら爆発するからね”と、初歩的な注意をするのです。オィ、オィ! 大丈夫かァ?

看護士の制服はピンク色、ツケマツゲにアイシャドーも濃く、コスプレの風俗店に思えて来たりしたのですが、液体窒素を塗られた痛みで現実に戻りました。

液体窒素で患部を麻痺させて除去するのかと思っていたら、ただ“焼く”だけで、後は自然に脱落するのを待つとのこと、だいたい10日くらいで取れてしまうとのことでした。

処置後30分ほどは、“ヒリヒリ”と云うよりも、“ビリビリ”、“チクチク”と云うよりも、“ヂクヂク”と痛かったです。“ビリビリ・ヂクヂク”も一時間ほどで消えました。

診察、処置、軟膏、ガーゼ、しめて、料金は1680円でした。


皮膚癌でなくてヨカッタ! ヨカッタ!


軟膏とガーゼ、軟膏の蓋に「かいた所?」ナニ?



よく見たら「やいた所」と判明。


裏には、「ボ チ」と謎の文字。


“病名は知っているから特に要りません”と云ったのに、“折角だから”と云われ、ピンクの看護士から手渡された病名の書かれたメモ用紙。“老人性”が気に入らん。でも、可愛い文字。特に「名」の字が、「タロ」に見えるところがイイです。



来週は、“母べえ”をもう少しやります。


それでは、また来週。


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映画“母べえ”で想いをめぐらす④ -浅野忠信の山ちゃん-

2010年03月11日 | 映画の話し

浅野忠信、いい役で、いい芝居をしていました。


こんな、わかくて、美しくて、魅力的な女性を、


山ちゃんは、悲しませてしまったのです。


この時、山ちゃんへの想いは、胸の奥にそっとしまいこんだのです。



母への想い、が・・・


家族への想い、が・・・


そして、いつしか、


すこしだけ、おんな、と、


おとこ、


そんな、想いを、通わせつつ、抱きつつ・・・・・・・・・。


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干物? いいえ、干物化した不動産広告です

2010年03月10日 | 街の風景
一瞬、エッ! ひ・も・の??????






いいえ、干物化した不動産広告でした。







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何で! どうして逝っちゃったの!

2010年03月09日 | その他
昨日、ブログを書き終わり数分して電話が鳴ったのです。

受話器をとると、周囲のざわつきが聞こえ、少し間をおいて、高齢者と思われる男性の声で従弟の苗字を名のったあと、「○○家の、○○さんが、今朝方、亡くなりました」

「えっ!」頭のなかは、何でェ! どうして? まさかァ? ホントに? もしかして? 悪戯電話と思い「あなた、どなたですが?」聞いてしまいました。

○○家の親戚を名のったのですが、聞き覚えのない名前でした。何処か、まだ、信じられないのでした。
「それで、何で亡くなったのですか?」
「え~、・・・・・・、今朝、亡くなった事だけ・・・、取り敢えずのところ、お知らせ致します」
「わかりました」と云って受話器を置きました。

信じられませんでした。突然の知らせですから、従弟は私より5歳年下です、彼の顔を思い浮かべながら、何度も、何度も、何で? どうしたの? を繰り返したのです。

病気や事故であれば、ハッキリと死因を告げた筈だと、そうすると・・・・・、もしかして? と思ったのです。

直ぐに、出掛けることにしました。従弟の家は車で40分ほどの距離です。車中で、むかしのこと、いろいろ思い出しました。

母が長女でしたので、いとこのなかでは、私と姉が一番年上で、姉を含めて女が7人で、男は私と彼の2人だけで、年も近く、一番親しい従弟でした。

小学生のころの夏休み、よく泊まりに行き、セミを捕ったり、魚を釣ったり、スイカを食べたり、トウモロコシを食べたり、真桑瓜を食べたり、まさに、絵に描いたような夏休みをしていたのです。

彼には妹がいました。二人兄妹で、とても仲がよいのです。数年前の事だったと思います。何故、あの時、彼の家に集まったのかは、忘れましたが、妹も旦那を連れて来ていたのです。

その時、庭で、何と云う道具か判らないのですが、チョット見はハンモックの様な、縄で編んだ網状の中にサトイモを入れ、片方の端を妹が持ち、もう片方を彼が持って、縄跳びの要領でまわし、サトイモの泥とか皮を落としていたのです。

その時、二人は、子供のような表情をして、声を出して笑いながら、楽しそうに、網を回していました。何か、とても、眩しく、羨ましく、眺めていたのを想い出します。本当に仲の良い兄妹でした。

家に着き、静かに横たわる従弟に線香を手向け合掌。枕元に坐る奥さんには、頭を下げるだけで、何も云えませんでした。未だ、55歳です。自分より年下の死は、寂しく、辛いものです。

親戚の話では、月曜の早朝に徹夜明けで帰宅し、家には入らず少し離れた納屋で、自ら命を終わらせたとの事でした。

数年前にあった時、人手が減らされ、仕事量が増え、朝早くから、夜遅くまで、休日にも出社し、いろいろと大変だとは聞いてはいたのですが、まさか、こんな事に・・・・・・、もう、背負い切れなかったのでしょう。

世間で問題となっている事が、身近で起こってしまったのです。

従弟は、ホントに“イイヤツ”でした。 優しくて、明るくて、真面目で、責任感があり、言葉どおり“いい人”でした。そんな人間だから、一人で、黙って、すべてを背負ってしまったのです。

今年の1月24日に会ったのが最後でした。今思うと、表情が暗かったです。笑顔がありませんでした。何を話しても、表情に変化がなかったのです。あの時、何か・・・・・・・。

今頃、そんな事を云っても・・・・・・、遅いのですが、残念でした。本当に残念です。

昨晩は、その時撮った写真を見ながら、いろいろ話しかけ、ひとり酒を飲みました。

ホント、俺みたいに、いい加減に、適当に、ダラダラ生きていれば・・・・・・・。そう思うのですが、それが、できなかったんだよなァ、アイツは・・・・・・。


安らかに成仏して下さい・・・・・・・、合掌。


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映画“母べえ”で想いをめぐらす③ -挙国一致は強くない-

2010年03月08日 | 映画の話し
先週の続きです。

やっぱり、金曜日の更新はできませんでした。都内の道路が予想外に混んでいたのです。渋滞のなかボンヤリした頭で、“そうか、今日は、五・十・日で、道路渋滞日でしたか”

そんな事で、帰宅したのが3時過ぎ、体力も気力も60代に入ると、それなりに衰えてきたようで、PCを起動したのですが、あちらこちらのサイトをボンヤリ小一時間眺めて、電源を落としたのでした。

それで、“母べえ”の話ですが、何故“2008年”に、こんな“ベタな反戦映画”が制作されたのか? と云う、前回の疑問からです。

“母べえ”の公開は2008年1月26日で、前作の“武士の一分”が2006年の12月1日の公開ですから、2006年の年末あたりに、“反戦映画”を制作する動機となる何かが? と、思ったのです。

すると、あったのです!大きな社会的出来事が! 私も完全に忘れ去っていた事が。3~4年前の出来事も、覚えていなかったのです。単なる“ボケ”なのか? それとも“慣れ”なのか?

2006年はどんな年だったのでしょうか?

9月26日に小泉内閣に変わって安倍内閣が誕生。

11月16日、“愛国心”の表現方法で揉めた、“改正教育基本法”が、野党が欠席する衆議院で、与党単独で採決し通過。

11月30日に防衛庁が、“防衛省”に昇格する法案が、与党の、自民、公明と、野党の民主と国民新の賛成投票で衆議院を通過し、翌年の1月9日に省に昇格。

はじめての教育基本法の改正、防衛庁が防衛省に、そして、憲法改正への“具体的手続き法案”の議論が開始されたのも、2006年でした。

“ふつうの国”として、生まれ変わると解釈する人達、“ふつうに戦争が出来る国”として生まれ変わると解釈する人達。

でも、あの当時・・・・・・、こんな表現をすると、何か、ホントに、遠い昔に思えますが、ほんの数年前の出来事です・・・・・・・、どこまで、ふつうに暮らす人たちが、いろいろと、考えていたのか・・・・・・・。

いまでは、教育基本法も、防衛省も普通になり、特に話題にはなりません。みんな、直ぐ忘れるのか? 直ぐに慣れてしまうのか? でも、あれから、何かが変わった筈です。

まぁ、そんな、こんな、で、山田洋次監督は、世相の変化に危機感を抱き、“母べえ”を制作した、と、そう、思うのです。

でも、どうも、しっくり来ないのです。

何故、ふつうの庶民ではなく、ドイツ文学者で元大学教授の知識階級の家族なのでしょうか?

一部の知識人にとっては、自分の意志に反して、無理矢理戦争に協力させられ、自由な発言もできず、辛くて、哀しくて、残酷な世の中だったのかも知れません。

でも、しかし、普通の庶民は、何だか判らないまま、


それなりに、当時の政策を支持し、


強制ではなく、率先して、疑問も抱かず、


忠誠心の競争をしていたのでは?


国と国が争い闘う時は、反対を一切認めず、全国民が一丸となり、敵と戦う方が強いと思っていたのでしょうが、事実は、結果は、それなりに自由な国の方が勝ってしまったのです。

挙国一致は、強さではなく、弱さの現れで、“鬼畜”米英等の感情に訴え、憎しみを煽っても負けるのです。竹槍でB29は撃墜できなかったのです。

戦争は政治であり、外交であり、経済であり、科学技術であり、“理性”で闘うものでは?

それで、反戦映画なのですが、反戦平和を唱える側も、感情に訴えていると思うのです。痛いとか、苦しいとか、腹減ったとか、そんな感情に訴える方が、短時間で理解され、賛同を得られ易いのです。まぁ、映画ですからね。

それと、思うのです。人間は“争い好き、戦争好き”だと、それを前提として、歯止めの“仕組み”を、理性的に、現実的に、作ったほうが良いのでは?

それで、「母べえ」なのですが、過去の戦時体制における、知識階級の苦しみを描く事では、新たな戦時体制への歯止めにはならない、と、思うのです。

何か、もっと、別な方法が、あるような? ないような? かなり、ムヅカシイのです。

でも、ホント、こういう、反戦映画は、ちょっと、もう、・・・・・・。

では、また明日。

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大好きなチーズパン

2010年03月05日 | 食事の話し
パンは堅いのがいいです。噛んで、噛んで、しっかりと味わうのです。

チーズはレッドチュダーがいいです。

アンデルセンのレッドチュダーチーズが入ったパンが大好きです。


写真を見ると、イイ香りがしてきます。ボリューがあるのです。

食べ終わると、顎ごちょっとだけ疲れます。

歯に良し、顎に良し、脳に良し、身体によし。


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