歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

太田道潅とシンデレラ伝説

2006年11月20日 | 東京の風景
先日、「太田道潅」縁の地を歩いて来ました。
道潅と云ってもねェ・・・・・・・・今は知らないんだろうなァ。

江戸城を造った人ですね。落語の「道潅」の話しでも知られています。


「道潅」のあらすじです。

猟の途中で雨が降ってきたので、近くのみすぼらしい民家で 雨具を借りようとしたら、出てきた女性が、黙って山吹のひと枝を差し出したのです。

道潅も、その場で何のことやら判らず怒って帰りました。山吹を差し出したのは『お貸しする雨具がありません』との、断りの意味でした。

山吹の一枝を差し出すことで、山吹を詠んだ有名な

『七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき』

という和歌を思い出しなさいと言うサインでした。

雨具を借りにきたのだから、詠われている『実の』と、雨具の『簑』を掛詞にして、『実の一つだに なきぞ悲しき』なのだから『お貸しする簑はありません』と云っていたのです。山吹には実がならないそうなんです。

『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき』

道潅と云えば、この歌ですね。本歌では「なきぞあやしき」だそうです。この歌は平安時代、今から千年ぐらい前の、兼明親王(かねあきらしんのう)という人の歌だそうです。


【都電の面影橋のそばにある「山吹の里」の碑です。この辺で娘と出会ったとか】



このみすぼらしい「民家の娘」が「紅皿欠け皿」民話で知られる「紅皿」であったとした説があり、その「紅皿の墓」と云われているのが新宿区の大聖院にあります。上の写真です。それが、寺の境内というよりも、「元境内」であった「駐車場」の片隅にあるので判りにくく探し回ってしまった。 

「悲劇のヒロイン?」の話しと、「悲劇のヒーロー?」がいつの間にか結びついたのです。

「紅皿欠け皿」は、世界中に伝わる「シンデレラ伝説」の日本版で、所謂、「継母もの」です。「紅皿」がいじめられる姉の名前で、「欠け皿」妹の名前です。姉の紅皿が歌を詠んだことから、二つの話しが合体したようです。それにしても変な名前です。


それでですね。「七重八重・・・・・・」の歌の話しですが、民家の娘が、山吹のひと枝を差し出して、雨具の断りとして使ったのは、娘の解釈であり、歌の本来の意味は別にあると思っていたのです。

それに、落語ではそのように解釈できる演じ方をしています。
ところが、驚いたことに(そんなに驚かない?)最初から雨具を断る為に詠んだ歌だったのです。それが、12時間に及ぶ「今回の大調査?」で判明しました。

そのことは、兼明さん自身が歌の説明をした『詞書(ことばがき)』に書いていたのです。

雨の降った日、兼明さんの家に来客があり、帰りに蓑を貸してほしいと言われて、黙って山吹の枝を折って渡したのです。

受け取った人は何のことか分からずに帰り、後日、あれはどういうことだったのかと使いの者を寄越したので、あの歌を詠んで渡したそうです。

今ならば、『実の』と『簑』を掛けた『おやじギャグ』だと思います。
兼明さんは、醍醐天皇の皇子という偉い方だそうです。

そんな偉い方なのに、貸してあげる簑のが無いというのは、なんか不自然ですけどね。歌本来の隠された謎がある筈です。絶対に、そんな気がするのです。

そこで、私が「大胆」に推理してみました。

七重八重・・・とくれば、七、八、ですから、次は九で「九重」ですよね、九重は音読みで「きゅうちゅう」になり「宮中」に繋がるのです。

「花は咲けども 山吹の」、この「山吹」は「山吹色」すなわち「黄金」意味しているのです。

「花は咲けども」は、それなりに「処遇」されたが、
「実のひとつだに なきぞ悲しき」結果として、たいした財産も残せなかった。

結論。
宮中に上がり、それなりに処遇はされたが、結果として、たいした財産も残せず、雨具のひとつも客に貸せない、貧しい状況に今はある。
「何とかしてくれよ!」

こんな愚痴を歌ったのではないでしょうか?もの凄い画期的な解釈です。



それで、話しを戻します。
兼明さんは914年生まれで、987年に、73歳で亡くなっています。
山吹の歌が載った、「後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)」は、兼明さんが亡くなってから、99年後の1086年に編纂さられています。

太田道潅は、後拾遺和歌集が出来てから、346年後の室町時代の1432年に生まれ、1486年に54歳で亡くなりました。

亡くなった理由は、主君の上杉定正が、道潅を自らの城に招き、風呂をすすめ、その入浴中に殺してしまったのです。

優秀な部下である道潅に、自分の地位を奪われると思ったようです。悲劇のヒーローですね。

落語のネタ本になったのは、湯浅常山の書いた『常山紀談』です。この本は、有名な武将のエピソードを集めたものです。道潅が亡くなった後、253年後の江戸時代の1739年に書かれました。
 
最初に演じた落語家が、いつ頃の誰であるかは判りません。多分、江戸の後期か明治時代の初期でしょう。歌舞伎の演目にもあったそうです。

歌が詠まれてから、平安、室町、江戸、明治、大正、昭和、平成の現在まで約千百年の時が流れています。
 
歩きまわり、いろいろ調べて、少し考える。いいよねェ~こういうのって。

       お・や・す・み・・・・・・・  


  
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