歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

⑦映画“利休”儚く、空しく、侘びしく、ものの哀れ

2011年10月10日 | 映画の話し
一昨日の続きです。

秀吉は“権力奪取”に利休の茶の湯での権威を利用し、利休は茶の湯での“権威を確立”するために、秀吉の権力を利用していた。

そして、秀吉は頂点に上り詰めたところで、利休に切腹を命じました。

“茶の湯”は、戦闘集団の武士階級に、趣味と実益を兼ね備えた、とても便利な道具であり、嗜みであり、貴族階級を真似る、教養であり、文化的な習い事であり、趣味道楽であった。

兎に角、支配する側は、単に武力や財力だけではなく、支配される側に、支配されることを、当然と思わせる、理屈とか、見た目とか、仕組みとか、そういったものが、必要なのだと思うのです。

貴族階級から、戦闘集団の武士階級に権力が移り、武士階級も貴族階級のように、思想とか、文化とか、教養とかで、自身の飾り付けを必要としていたのです。

茶の湯と云うと、先ずは飲む場所として、部屋の設計で建築関係、部屋のデザインで室内装飾関係、茶菓子で料理関係、そして、茶席での衣装で服飾関係で、つまりは衣食住となるのです。

それに、茶碗で、お皿で、陶器関係、それに、茶釜で鋳造関係、それに茶道具で雑貨関係?と、それに掛け軸で絵画美術関係、日常生活の全般から芸術関係まで、いろいろと関わってくるのです。

と、云う事は、それら全般を選ぶ、いろいろな、趣向とか、好みとか、そして、そのような環境での、所作とか、立ち振る舞いとか、会話とか、価値観とか、そんなことになるのです。

それで、利休ですが、彼が、これまでの茶の湯で使われていた豪華絢爛の、高級で高価な茶道具から、安価で身近な素材へと伝統を断ち切る改革を行った利休。

すべてを削ぎ落とし、質素で簡素な“わび茶・わびの草庵”に傾いていったのは何故なの? どうしてなの?です。

先ずは、第一に、お茶が持つ特性が関係しているのでは?と思うのです。

お茶を飲むときは、ゆったり、ゆっくり、落ち着いて、気楽に、和やかに、緊張をときほぐし、のんびりと、一口飲んで“フゥー”と、息を吐き、気分を休めるときに飲むのがフツウです。

利休以前、戦国以前の茶の湯は、キンキラキンの部屋で、高価高級の器で、貴族階級が中心の儀式であり、地位の象徴であったのだと思います。

そして、次に、武士達による戦乱の時代を経過し天下統一が成され、時代は混乱から平穏に移り始め、茶の湯は地位の象徴から、日常雑事から離れ、気分を休め、静かに、世の中の移ろいに想いを馳せる空間へと、変化を望む時代的要求があった?と、思うのです。

それで、利休の“わび茶・わびの草庵”ですが、天下統一を目前にして、光秀によって葬られた信長、信長後の権力闘争、それらを身近で見ていた利休。これが第三です。

これは、当然、権力の、人間の、世の中の、“儚さ、空しさ、侘びしさ”を、とても、とても、感じていたと思います。

これらのことで、低く、狭く、質素の、“わび茶・わびの草庵”に繫がって行ったと、そう思うのです。生まれるべくして生まれた、利休のわび茶。

それにしてもです。いまの茶の湯と云うか、茶道と云うか、裏千家とか、表千家とか、そんな茶道界と、政界とか、経済界とか、学術界とか、芸術界とか、どんな関係にあるのでしょうかね?

利休後は、切腹のトラウマで、権力に寄り添うと云うか、権力の庇護の下で、それなりの役割を担って来た茶の湯。

今でも、権力とは寄り添っているの? もしかして、そも、そも、そんな発想じたいが成立しないのか?

数年前、高級そうな和服で着飾った淑女達を、池袋の護国寺の境内の茶会で見かけたのが、茶道を身近に見た最後でした。

それにしても、映画“利休”は、日本を代表する傑作のひとつだと思います。


最後は、かなり結論をいそぎましたが、これで、“利休シリーズ”を終わります。


それでは、また次回。


※次回からは、久しぶりの! 東京です!。それも、中心、ど真ん中、神宮外苑、迎賓館、永田町、六本木、赤坂、なのです。

久しぶりにタイトル通りの“歩く、見る、食べる、そして、少し考える”記事になりそうです。


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