先週の続きです。
林を抜け、突然現れた石碑、刻まれた文字を見てビックリ!したのです。
ホーホケキョの声を聞きつつ、のどかな里山の風景を眺めつつ、青い空、白い雲を眺めつつ、のんびり、うっとりしていた時に、これですから。
“B29墜落平和の碑”です。エッ! 何で? そんなものが! ここに? じっと見つめてしまいました。
それにしても、“B29墜落”と“平和”の文字がどうしても繋がらないのです。B29ですよ! あの米軍最初の“本格的・大型・戦略・重爆撃機”ですよ!
【ウィキペディアより転載】
爆撃機が墜落で平和の碑なの? 繋がりません。あの日、爆撃により10万人以上の犠牲者がでたのです。
碑文を読んでみると、あの、1945年3月10日の“東京大空襲”の時、ここに一機のB29が墜落したのです。
東京を空爆し帰還する途中で、操縦不能となりこの辺りの林に墜落したのです。搭乗員12名中、9名が焼死、負傷者3名が消防団に救助されたのです。
建立者の名前があります。“B29墜落-米兵を救った日本人”の著者“草間秀三郎”とあります。
協力者には、横文字もあり、搭乗員の関係者のようです。建立は平成13年7月15日ですから、つい最近のことです。
裏側には、この機のニックネーム“TALL IN THE SADDLE”と刻まれています。調べてみたら、この年の前年、1944年に、このタイトルで西部劇が上映されていたのです。主演は“ジョン・ウェイン”です。たぶん、ニックネームはここから付けられていると思います。
搭乗員の名前があります。
石碑の前は、畑が開けています。明るい陽射しを受けています。
石碑の裏は暗い杉林。
周りをウロチョロしていると、70前後のおじさんが通り掛かり、“この碑の関係者ですか?”声を掛けられました。
平日のこんな時間に、こんな人家から離れた林の中、近所の住人でもなし、単なる通りすがりでもなし、関係者と思ったのでしょう。
“違いますよ”と答えると、ひとしきり、説明をしてくれました。碑の裏手50メートルほど行くと、数メートルの墜落跡の穴が残っており、今は狐の巣になっているとの事でした。
おじさんが立ち去った後、穴の場所を目指して、暗い杉林に足を踏み入れたのですが、直ぐに、これは、チョット、ムリ、と判断し止めました。
毎年、3月10日には献花が行われているようです。その時の名残でしょうか? ポツンと置かれた缶コヒーが、とても印象的でした。
石碑を後に、林を抜け、田圃に出ました。あの台地に、63年前の深夜、B29が墜落したのです。
帰ってから、“B29墜落-米兵を救った日本人”の本が気になり、翌日、つくばみらい市の図書館に行ってきました。
著者の草間氏は、当時、8歳で現場を目撃し、生存者が警察官に連行されていくのを目撃したそうです。
そして、当時の茨城新聞の紙面に載った機体番号“44-69686”から、いろいろ調べて、搭乗員の関係者を探りあてたそうです。建立式には米国の関係者も参列したそうです。
石碑は、本の印税で造られたそうです。東京大空襲で爆弾を落とした張本人達ですから、かなり反対もあったようです。
石碑の左下に、括弧でくくられ、“この碑は大空襲犠牲者をも慰霊する”と刻まれていますが、これは、後から付け加えられたそうです。
“をも慰霊”の表現に、かなり複雑な感情が表現されています。本来、著者は碑文のタイトルに、“B29搭乗者慰霊碑”としたかったのでしょう。
本のタイトルに“米兵を救助した日本人”とあり、あの当時の、あの状況で、米兵を救助した消防団の行為を讃えているのです。
確かに、人道的にも、ジュネーブ条約的にも、正しい行為であったと思います。しかし、命令とは云え、非戦闘員に対する無差別爆撃を行った兵士は、明らかに戦争犯罪者です。
確かに、誰もが、自分の意志とは関わりなく、命令で殺戮を行う戦争は、それ自体が犯罪であり、被害者も加害者も無い、との立場も、それなりに理解できます。
そんな、こんなで、“B29墜落平和の碑”となったのでしょう。
それで、3名の生存者のうち、重傷の1名は翌日に処刑され、その処刑に関わった者は、戦後、BC級戦犯として逮捕されたそうです。
また、残る2名は、東京の捕虜収容所で、米軍の空爆で死亡したそうです。
明るい、暖かい、春の一日、のんびり、ポタリングが、こんな場所に出くわしてしまったのです。
現実は、歴史は、そして、これからは、かなり厳しい世の中が、まだ、まだ、続きそうです。
でも、しかし、です・・・・・・・。
それでは、また明日。