先週の続きです。
「たぬき食堂」の前を通り過ぎ、354号線を市役所方向にぶらぶらと歩きます。左手にお寺の山門が見えてきました。
大楽寺とあります。
京都嵯峨にある寺の別院で、関東の本山とあります。本山と云う事は、関東には「末寺」が幾つかあるのでしょう。
“京都嵯峨化野念仏寺別院”とあります、これを見ていて、何処までが「地名」で、何処からが「寺名」なのか考えてしまいました。
「そんな事は一々どうでもいい!」と、云われれば、それは、そうなのですけど・・・・・。
後で調べると、「化野念仏寺」が正式名称でした。寺の所在地は“京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17番地”となっています。
化野の地で「念仏」を唱える寺で“化野念仏寺”と云う事なのです。それならば、看板には「京都嵯峨“化野念仏寺”別院」と、表記してほしかった。
「そんな細かい事に拘るな!」と、云われてしまえば、そうなのですが・・・・・・。兎に角、暇なものでして、そんな事を考えるのです。
それで、寺のホームページに載っていた参道の写真なのですが、似ているのです。やっぱり、「本院」を意識して「別院」は造られているようです。
本院の参道。
別院の参道。
お寺の参道は「何処でも、こもこんなもんだ!」と、云われてしまえば、「まぁ。そんなもんだよねぇ」と、答えるしかないですけど・・・・・・。
何か、今日は、弱気になっています。昨日は晴れて暖かかったのですが、今日は、冷たい雨が降っています。気分は「お天気次第」なのです。
山門の先では、清掃の「おじさん」と、近所の「おじさん」が、世間話をしています。私が傍らを通っても、何の反応もしませんでした。
階段を登り真っ直ぐ行くと本堂。
しかし、右手に気になるものが見えたので、右に曲がります。
お釈迦様の“誕生ホーズ”です。産まれて直ぐに、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と云ったそうです。
産まれて直ぐに、そんな事を云う筈が無いのですが、兎に角、尊いお方ですから、「そんな事を云って不思議ではない」と、後世の「お弟子さん達」が考えたのでしょう。
それにしても、この「天上天下唯我独尊」は、ちょっと問題です。言葉どおり素直に解釈すれば「世の中で自分一人だけがすぐれている」となります。
所謂、「ひとりよがり」です。あまり良い言葉ではないと思われています。特に、あの暴走族が、「特攻服」の背中に「唯我独尊」何て「刺繍」を入れたりして、世間では冷たい視線を浴びています。
お釈迦様でも、二千数百年後の世の中に暴走族が産まれ、「天上天下唯我独尊」を背にして、街頭で騒音をまき散らし、走り回る時代が来るとは、想定出来なかったのです。
兎に角、お釈迦様の偉大さを伝える為に、お弟子さん達が考えた事だと思うのです。
しかし、いくら偉いからといって「そこまで云うか?」との、時代の「空気」があります。最近、関係者もこの言葉には、あまり触れたがらない「空気」があります。
誕生のポーズの傍らに、遺骨を納めた「仏舎利塔」があります。
“生と死”が並んでいるのです。
二つを交互に、何度か見つめ、私も、それなりに“生と死”について、ほんの一時だけ、考えてみたりしたのです・・・・・・。
大楽寺は、明日も続きます。
それでは、また明日。
「たぬき食堂」の前を通り過ぎ、354号線を市役所方向にぶらぶらと歩きます。左手にお寺の山門が見えてきました。
大楽寺とあります。
京都嵯峨にある寺の別院で、関東の本山とあります。本山と云う事は、関東には「末寺」が幾つかあるのでしょう。
“京都嵯峨化野念仏寺別院”とあります、これを見ていて、何処までが「地名」で、何処からが「寺名」なのか考えてしまいました。
「そんな事は一々どうでもいい!」と、云われれば、それは、そうなのですけど・・・・・。
後で調べると、「化野念仏寺」が正式名称でした。寺の所在地は“京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17番地”となっています。
化野の地で「念仏」を唱える寺で“化野念仏寺”と云う事なのです。それならば、看板には「京都嵯峨“化野念仏寺”別院」と、表記してほしかった。
「そんな細かい事に拘るな!」と、云われてしまえば、そうなのですが・・・・・・。兎に角、暇なものでして、そんな事を考えるのです。
それで、寺のホームページに載っていた参道の写真なのですが、似ているのです。やっぱり、「本院」を意識して「別院」は造られているようです。
本院の参道。
別院の参道。
お寺の参道は「何処でも、こもこんなもんだ!」と、云われてしまえば、「まぁ。そんなもんだよねぇ」と、答えるしかないですけど・・・・・・。
何か、今日は、弱気になっています。昨日は晴れて暖かかったのですが、今日は、冷たい雨が降っています。気分は「お天気次第」なのです。
山門の先では、清掃の「おじさん」と、近所の「おじさん」が、世間話をしています。私が傍らを通っても、何の反応もしませんでした。
階段を登り真っ直ぐ行くと本堂。
しかし、右手に気になるものが見えたので、右に曲がります。
お釈迦様の“誕生ホーズ”です。産まれて直ぐに、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と云ったそうです。
産まれて直ぐに、そんな事を云う筈が無いのですが、兎に角、尊いお方ですから、「そんな事を云って不思議ではない」と、後世の「お弟子さん達」が考えたのでしょう。
それにしても、この「天上天下唯我独尊」は、ちょっと問題です。言葉どおり素直に解釈すれば「世の中で自分一人だけがすぐれている」となります。
所謂、「ひとりよがり」です。あまり良い言葉ではないと思われています。特に、あの暴走族が、「特攻服」の背中に「唯我独尊」何て「刺繍」を入れたりして、世間では冷たい視線を浴びています。
お釈迦様でも、二千数百年後の世の中に暴走族が産まれ、「天上天下唯我独尊」を背にして、街頭で騒音をまき散らし、走り回る時代が来るとは、想定出来なかったのです。
兎に角、お釈迦様の偉大さを伝える為に、お弟子さん達が考えた事だと思うのです。
しかし、いくら偉いからといって「そこまで云うか?」との、時代の「空気」があります。最近、関係者もこの言葉には、あまり触れたがらない「空気」があります。
誕生のポーズの傍らに、遺骨を納めた「仏舎利塔」があります。
“生と死”が並んでいるのです。
二つを交互に、何度か見つめ、私も、それなりに“生と死”について、ほんの一時だけ、考えてみたりしたのです・・・・・・。
大楽寺は、明日も続きます。
それでは、また明日。