歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

「取手宿本陣」歌に込めた斉昭の思い!?

2007年11月28日 | 建物の話し
昨日の続きです。

母屋を出て、庭の脇を通り、階段を登った先にある、水戸藩九代目の藩主「徳川斉昭」の詠んだ「歌碑」を見に行きました。

歌は、天保11年(1840年)の1月、水戸に向かう斉昭が利根川を渡る船の中で詠んだそうです。

一泊した翌日、和歌2首を上段の間の袋戸に貼り付けて出立しました。貼り付けられた2首の和歌は、軸装されて家宝として染野家に伝わっています。

取手川のところは読めますが、後はほとんど読めません。

このうちの1首は,天保14年(1843)5月に、水戸藩より石に刻まれ染野家に贈られています。

  『指して行く さほのとりての 渡し舟

           おもふかたへは とくつきにけり』

わざわざ、歌碑まで造った思いは何か?

染野家に対する配慮ではなく、これには斉昭の「歌に対する」強い思い入れがあった様に思うのです。

石に刻んでまで、後世に残したかった思いが、この歌に込められていると思うのです。


それで、歌碑の脇に立てられている「案内板」を見たのですが、歌の経緯はあるのですが、歌の解釈は書かれていません。


そこで、大胆にも! ど素人の! このわたくしが! 歴史的背景を探り! 歌に込められた斉昭の「思い」を! 解釈する! 暴挙に出る! 決意を固めました!


斉昭が生きた時代は「幕末」であり、家康以来の幕藩体制に制度疲労が生じ、政治経済が行き詰まっていた状況で、海外からは開国を迫られていました。

所謂、「内憂外患」の時代で、その解決方針をめぐって、改革派と守旧派が対立していました。

斉昭は「尊皇」であり、「攘夷派」です。しかし、西洋の科学技術の導入には積極的でした。蘭学者に造船技術書の翻訳をさせたり、間宮林蔵に「蝦夷地」の状況を訊ねています。

歌を詠んだ天保11年ですが、前年に斉昭は幕府に対して、外洋航海可能な「大船解禁」や「蝦夷地開拓」ついて、幕府に提案するのですが、却下されています。

そこで、この和歌なのですが

  『指して行く さほのとりての 渡し舟

           おもふかたへは とくつきにけり』

“指して行く”は、「これからの日本のあり様を指し示す」と、解釈できます。

“さおのとりて”は、船頭の事であり、これは「国を先に導く指導者」を意味します。指導者は勿論「斉昭」です。又、“とりて”は「取手」に引っ掛けてもいます。

“渡し船”は日本のことです。

“おもふかたへは” 「考えている方向に進めば」となります。

“とくつきにけり”は、「とくつき」は富みであり「繁栄」が約束される。

と、この様に解釈したのであります。

斉昭の改革案が幕府に否決され、不満を抱きつつ水戸に向かっていた利根川の船上で、舟を操る船頭を見ていて、自分が日本の船頭になり、思うとおりに棹を操ってみたいと思ったのでしょう。

歌碑を贈った天保14年は、水戸藩内の改革で、反改革派との権力闘争に敗北し、藩主を失脚、翌年(1844年)、幕府より致仕・謹慎を命ぜられています。

この人が「斉昭」です。左は斉昭の息子、最後の将軍「慶喜」です。


幕府の大老「井伊直弼」により、「日米修好通商条約」を結んだのが1858年。

「日米修好通商条約」対して尊王攘夷派が反対運動を起こし、それを押さえ込む為に、井伊直弼は、1858年から59年にかけて尊王攘夷派の公家や大名を処刑します。「安政の大獄」です。
 
これに怒った尊王攘夷派の水戸藩士たちは井伊直弼を殺害します。1860年に起こった「桜田門外の変」です。

そして、1867年の大政奉還で幕藩体制が終わり、明治維新となるのです。


きょうは、「激動の時代」幕末を生きた「徳川斉昭」の「お勉強」でした。


それでは、また明日。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする