自称、ロシア印象派

 

 移動派に、レオニード・パステルナーク(Leonid Pasternak)という画家がいる。彼は「ドクトル・ジバゴ」で有名なソ連の作家、ボリス・パステルナークの父に当たる。

 移動派の他、芸術世界派にも参加し、ロシア絵画の金銀の時代を生きた。
 絵に対する情熱は本物で、その姿勢は誠実。画家として人気を得、社会からも評価された。自身は人格者で、知識・教養もある。おまけに伴侶にも友人にも恵まれていた。
 
 文豪トルストイと親交があったパステルナークは、その肖像のほか、小説のための挿絵も手がけている。
 また、トルストイがポリャーナからの家出の途中、アスターポヴォの駅舎で死んだ際、トルストイ夫人に呼ばれて、息子ボリスを連れて駅舎まで馳せ参じ、その死顔をスケッチしたという。もちろん、こうした事情は、のちに著名な作家となるボリスに大いに影響を与えた。
  
 何をどう取っても、申し分のない画家。エピソードにも事欠かない。けれども稀薄な印象の画家だ。
 彼の、その絵に備わりその絵を際立たせる特徴、まあ個性と呼んでもいいが、そうした特徴が、私にはよく分からない。パステルナークという画家は、ボリスの小説のなかの父親像のように、影が薄い。新しくパステルナークの絵に出くわしても、彼が描いたのかどうか、私は見分けられないと思う。単に私の勉強不足なのかも知れないが……

 自分でもそうした自覚があったのだろうか。パステルナークは注目度を上げるために、わざわざ自分を「印象派画家」だと自己規定したという。

 確かに経歴を見ると、印象派とのつながりが強い。
 黒海の港町オデッサの生まれ。両親はロシア正教徒のユダヤ人だったが、パステルナーク自身は、長男ボリスが生まれる直前にキリスト教に改宗している。
 絵は学問の邪魔になるから諦めるよう、親から説き伏せられ、大学では医学・法学を専攻。が、絵画への想いは強く、ミュンヘンのアカデミーに留学、ヨーロッパを広く旅行し、2年の兵役義務を終えて、27歳でようやくフルタイム画家となる。
 同年、著名なピアニスト、ローザ・カウフマンと結婚、再びパリを訪れ、印象派に触れる。翌年、ボリス誕生。
 ベルリンでは、リーバーマンやコリントなどのドイツ印象派画家らと交流。

 パステルナークは、ロシアで初めて戸外制作したポレーノフのもとに集まった若手の画家たちの一人だった。
 ポレーノフ・サークルの色使いは印象派並みに明るい。パステルナークもそうで、特に習作での走り描きは輝いている。が、光と陰の効果を追求したという意味では、同じメンバーだったセロフやコロヴィンのほうが、はるかに印象派的だ。
 芸術世界運動に参加する頃には、彼の自然主義的な画風は、ゴーギャンを思わせる平面的で強烈な色彩、あるいは、ボナールを思わせる非現実的に調和した柔和な色彩を用いた、象徴主義的ムード漂うものへと変わる。

 ……で、思う。一体、パステルナークは、印象派だった時期があったのだろうか?
 自己規定というものは、表現者にとって、ときおりその表現を縛りつける枷となる。

 十月革命から4年後、眼の手術のため、ボリスともう一人の息子をモスクワに残し、妻と娘二人を連れてベルリンを訪れる。そして、そのまま亡命。ソ連には帰らなかった。
 1938年、ナチスを逃れてイギリスに渡り、オックスフォードで死去。

 画像は、パステルナーク「試験前夜」。
  レオニード・パステルナーク(Leonid Pasternak,1862-1945, Russian)
 他、左から、
  「故郷」
  「海岸のアレクサンダー・プーシキン」
  「ポリャーナへの道」
  「耕作するレフ・トルストイ」
  「画家の娘たち」

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ギリシャ神話あれこれ:オデュッセウス帰還-キュクロプスの国

 
 翌朝、オデュッセウスは12人の部下たちを率いて上陸、島を探索する。海岸近くに洞窟を見つけて覗いてみると……
 仔羊や仔山羊の群れと、籠に盛られたチーズの山。洞窟の主はどうやら留守らしい。

 食料を奪ってさっさと逃げようとせがむ部下たちを、オデュッセウスが制する(彼は好奇心が勝って、洞窟の主を見てみたいと思ったわけ)。で、一行は勝手に洞窟に入り込み、火を起こして仔山羊を焼き、チーズと乳と持参した葡萄酒とで食事を始める。

 が、ほどなく洞窟の主が帰宅する。主が持ち帰った薪の束を投げ落とした地響きに、度肝を抜かれたオデュッセウスら一行、あたふたと火を消して物陰に隠れる。それは一つ眼巨人キュクロプスのポリュペモスだった。
 ポリュペモスは放牧から連れ帰った羊たちを奥へと追い込むと、洞窟の穴を大岩で塞ぎ、火を起こす。で、オデュッセウスらが残した飲み食いの跡に気づいて、洞窟のなかをあちこち捜し始める。

 そこでオデュッセウスが丁寧に名乗り出る。我々はトロイアから漂着した。どうか一夜の客としてもてなしてもらいたい。と。ところが……
 ポリュペモスはせせら笑って、2人の部下をつまんで岩壁に頭を叩きつけて脳天を潰し、手足をもいで串刺しにすると、火に炙って、骨一本残さずにばりばりと貪り食ってしまった。
 ……うう、長い戦争を生き延びて、こんな死に方、やりきれない。

 To be continued...

 画像は、エカスベア「ポリュペモスの洞窟から逃げ出すオデュッセウス」。
  クリストファー・ウィルヘルム・エカスベア
   (Christoffer Wilhelm Eckersberg, 1783-1853, Danish)


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ブレッド湖にて(続々々々々々)

 
 ときおり相棒、リーフレットに載っている写真と同じ箇所を見つけると、立ち止まり、見比べながら吟味して、「これはここに違いない。絶景ポイント見つけたよ!」と、嬉しそうに私に教えてくる。

 散々下って、ようやく滝へとたどり着く。木橋の上から豪快な滝と滝壺が見下ろせる。
 やっと着いたとホッと一息ついていると、相棒、鬼のようにギョロ眼を剥いて滝壺を凝視している。
「あそこには、どう行けば行けると思う?」
 見ると、滝壺のほとりの小岩だらけの、猫の額ほどの泥溜まりの空き地に、2、3の人影がこちらに向かって滝を見上げている。

 山道には案内板などなく、滝壺への道ももはや道などではなく、方向感覚だけを頼りに、泥でぬかるんでズルズルと滑る急な傾斜を、木の幹やら枝やら蔓やらをつかみながら、下りていく。行き来の激しい小道の中央は、まるで泥の滑り台。落ち葉に乗れば、そのまま下まで滑落する。

 空き地まで下りると、暗黙の順番に、一人ずつ、小岩を伝って滝壺のほとりまで近づくことができる。
「チマルさん行かないの? 僕行って、滝に打たれて、マイナスイオンを浴びてくるよ」
 相棒が小岩をよたよたと歩き始めた途端、「オーッ!」という叫び声。相棒が靴の泥で、ズルリと滑りかけたのだった。危ないなあ。

 滝壺の後は、さっきの泥の急傾斜を、ズルズルと滑りながら上る。まるでルームランナー。前に進まない。
 上には、これから滝壺のほとりに下りようという人たちが、私たちが上り終わるのを待っている。お洒落なサンダルを履いた姉ちゃんも、足腰の弱そうな婆さんも、下りていく。立派、立派。

 時間ぎりぎりにレンタサイクルを返し、湖畔を半周して丘の上の駅に向かう。ボーヒン鉄道に乗って、次の行き先はボーヒン湖。

 画像は、ブレッド城。

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ブレッド湖にて(続々々々々)

 
 ほぼ一周を歩き終え、湖畔から離れたところで、相棒が尋ねた。
「何か食べる?」
「クリームケーキィ……」
「チマルさんて俗物だね!」
 その日の夕食は、食べやすい中華の野菜焼きそばと鶏卵スープにした。私は前日から食欲がなかったのだった。
 ブレッド湖の名物ケーキ、ブレイスカ・クレムナ・レジーナは、残念ながらお預け。

 ときどき 翌朝、相棒が絶対行くと決めていた、ヴィントガル渓谷へと向かう。
 相棒は最初、「徒歩でも行けるんだって」と無謀だったが、やっぱりインフォメーションでレンタサイクルをゲット。何気に上り坂の田舎道を漕いで走る。

 ブレッド湖から少し離れると、いかにもスロヴェニアの田園という感じの、干草棚コゾレツが建ち、乳牛が群がって寝そべる牧草地が続く。
 ガイドブックには自転車ですぐとあったが、実際にはかなりの距離。ポドコレンでも感じた、いかにも旧社会主義国の農村らしい民家の集落をうろうろして、しばらくすると、峡谷の遊歩道への入り口に出た。相棒、ブレッド城には出そうとしなかった入場料を、とっとと払って、さっさと入れと私を促す。

 渓谷と言うよりは峡谷で、何段もの大滝小滝が連なって、轟々と音を立てながら流れている。で、渓流のすぐ横に、崖の岩壁に沿って、木の遊歩道がめぐらしてある。足許が濡れて滑りやすい。こりゃ凄い! 
「ブレッド湖なんか比較にならない自然美だ!」と相棒がはしゃぐ。

 遊歩道の行き着く先には必ず滝があるはずだ! 滝フェチの相棒、ほとんど走るようにして遊歩道を下りていく。急ぐのは、フェチという理由だけでなく、自転車のレンタルが時間制だったからでもある。

 To be continued...

 画像は、ヴィントガル渓谷。

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ブレッド湖にて(続々々々)

 
 湖を一望した後は、土産物の屋台を見物。フィンガーピアノとピッコロの伝統楽器を触らせてくれた。
 「セニョーラ、これも試してみて」と蜂蜜を差し出されたところを、さっきのモスクワ人が通りかかり、「ハニーがハニーを食っている!」と大喜び。
 モスクワのイーヨー(=知的障害者の意味)たちと、その保護者たちが、バスで慰安旅行に来ていたのだった。彼らがバスで帰ってしまうと、賑やかだった広場はとても淋しくなった。

 その後、つづら折の階段を湖畔まで降りて、湖を一周した。

 湖中央からこちら側は俗化されていて、味気ない四角な建物が並んでいる。が、それらは湖途中から、上手いこと見えなくなっていて、湖はロマンチックな景観を保っている。

 みんな小舟に乗って、教会のある小島へと漕ぎ行く。
 湖畔にはあちらにも、こちらにもカモの一家がくつろいでいる。お母さんガモの周りには、家族によってまちまちなのだが、生まれて間もないヒナたち、あるいはかなり大きくなったヒナたちが、ちょこまかと集まっている。あるいはフワフワの塊となって昼寝をしていたり、あるいはポコポコと浮かんで湖面を泳いでいたり。
 羽を膨らませてドーンと座り込んだお母さんガモがいて、羽の下で、生まれたばかりそうなヒナたちがモコモコと動いている。もう少し近くで見てみようと近寄ったら、カモが鼻息を荒らげて威嚇する。お母さんは勇敢だ。

 イタリアンな女の子が一緒の、ベビーカーを押した家族、それからアジアンな若いカップルと、抜きつ抜かれつしながら、湖畔を歩く。新郎新婦を乗せた馬車とすれ違う。傍若無人に歩行者を蹴散らしながら走る、レンタサイクル中国人団体とすれ違う。

 To be continued...

 画像は、ブレッド湖外れの牧場。

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