啓示

 
 学生の頃、相棒を待ってポケーッと座っていたところに彼がやって来て、私に尋ねた。
「待ったでしょう。何をしていたの?」
「思い事」
「思い事? 考え事のこと?」
「ううん、思い事よ」

 次に会ったとき、相棒が言った。
「思い事と考え事との違いが、分かったよ。僕は今まで、考え事という範疇しか持ってなかったけど、実はいろんな思い事もしてきたんだと気づいたよ」

 それから一週間くらい経ってから、相棒はこんなふうなことを言った。

 科学者というのは真理の使徒であって、真理の世界の言葉を人間界に伝えることを使命とする。……これは前にも言ったことがある。
 でも、真理というものはそもそも、一部の人間が独占できるという性質のものじゃない。科学的な分析の手続きを踏めば、誰でも真理に到達することができる。だから、真理は科学者のもので、他の人間はその教えを受けることによってしか真理を手に入れることができない、という理解は、間違っている。

 ところで、科学がなぜ真理に到達できるのかと言えば、科学の存在以前に、そもそも真理が存在するからなのだ。科学によって、人間は確実に真理に到達することができる。けれども、真理が先にある以上、科学によらなくても、人間は真理に到達することがあり得る。直感のような、第六感のような、そういうものによって。
 ある種の思想や、芸術のような表現が普遍性を持つのも、そういう理由によるのだ。逆に言えば、真理の存在や、それを汲み取る霊感の存在を忘れて、これが真理だ、これが真理への筋道だ、とだけアプリオリに強調するような傲慢な発想は、真理が何たるかを全然分かっていない人間のものだということだ。そうした人間には、科学の素養も芸術の素養も、ないに等しい。
 ……

 最近、やけに昔のことばかり思い出す。年齢を取ったんだろうか? もうすぐ死ぬんだろうか?

 子供の頃、私は、今はまだ遠く、思いも及ばない生き方が、自分のために定められているような気がしていた。まだ見ぬ世界に憧れつつ、日々世界を旺盛に我がものとしていた。そして、神と、空想のなかで作り出した幾人もの友人とに、心のうちをそっと打ち明けていた。
 私はもう、あの頃のような子供ではなく、世界にはつらく悲しいことのほうがよっぽど多いと知っているけれど、最近、あの頃ずっとそうしてきたように、もう一度、世界の声に耳を傾けてみようかと思うようになった。

 画像は、ベラスケス「巫女」。
  ディエゴ・ベラスケス(Diego Velazquez, 1599-1660, Spanish)
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