人間愛と洞察

 

 クラムスコイの最も有名な絵は、「忘れ得ぬ女(見知らぬ女)」。本当に、一度観たら忘れられない。
 
 馬車に座ったまま、こちらを見下ろす一人の女性。北の国ロシアらしい、白く霞んだ大通りを背景に、その女性は、身を包む毛皮のコートも帽子もマフも、髪も眉も瞳も、くっきりと黒い。涙のようなひとかけらの光を宿す、憂いを含んだ眼差しと、心持ち微笑んだような口許。貴婦人だろうか、それとも高級娼婦だろうか。
 「ロシアのモナリザ」とも、「アンナ・カレーニナ」とも呼ばれるこの絵は、依頼主もなく、モデルも依然明らかではないという。

 イワン・クラムスコイ(Ivan Kramskoy)は、19世紀後半ロシアの自立的、民主的な絵画運動である「移動派」を主導した。優れた肖像画家で、当時のロシア文化人・知識人の肖像画を数多く制作し、それらの絵は今やロシア文化史の一部でさえある。
 が、農民を描いたものもある。私はそちらのほうが好き。

 絵を勉強する機会はなかったというのに、特別な準備もせずに、アカデミーに合格。あっという間に学生らのあいだでリーダーシップを発揮する。
 いわゆる「14の反乱」と呼ばれる、学生14人が神話をテーマとする卒業制作を拒否してアカデミーを去った事件の際も、やっぱりリーダーシップを発揮。その同じ年にはもう、若き教師として教鞭を取っている。

 アカデミーの古い、既存の体質を批判したクラムスコイだけれど、そりゃ非凡な実力だもの、若くしてそのアカデミーに、会員として迎えられている。が、理想と信念は曲げず、ヨーロッパを歴訪後、「移動美術展協会」を組織して、ロシア各地を巡回しながら展覧会を開催、ロシア社会の芸術水準の向上に努めた。
 写実主義という、ロシア絵画における新たな流れは、ここに端を発している。
 
 年月とともに、クラムスコイの名声は不動のものとなり、裕福にもなったけれど、無理な制作活動が祟ってか、49歳で死んでしまった。

 クラムスコイの絵は、概ね、あまり大きくはない。が、鋭い洞察力と、優れた写実描写を武器に、モデルの内面をしっかりと捉えている。
 色彩の魅力を理解していて、陽光を浴びた、ぱっと明るい絵も描いている。が、大抵は、ほとんどモノトーンにまで色味を限定し、人物の背景には何もない。
 人物たちは思索している。帝政ロシアの圧制のもとで、人間的であること、あろうとすること、ありたいと願うこと、そうした意志や良心が、人物たちには表われている。クラムスコイはその肖像画で、自身の道徳的、社会的理想を体現している。

 私の亡き友人は、汎愛を嫌忌していた。悪い人間を愛することなどできないから。私もそう。世の中、悪い人間が多すぎる。無知も卑怯も邪悪も、みんな悪い。
 けれども、知を主要なモメントとする人間本質を愛することはできるし、それが発展してゆくベクトルも信じることができる。だから私は救われている。

 画像は、クラムスコイ「忘れ得ぬ女」。
  イワン・クラムスコイ(Ivan Kramskoy, 1837-1887, Russian)
 他、左から、
  「荒野のキリスト」
  「青いショールをかぶったロシア娘」
  「ミーナ・モイセーエフの肖像」
  「扇を持った娘」
  「画家の娘」
     
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