僕が僕であるために(続)

  
 大学院に進学するにも関わらず、子供を産むと決めたとき、相棒(このときはまだ相棒はなかったけど)に、「私は一貫して私自身でした」と告げた。
 相棒はこれを、真実の言葉だと感動したらしく、以来、自分の人間的自然以外の言動を取ろうとしない。

 ところで、同じく院生だった友人のモリコー氏が、あるとき鼻息荒く、こう主張した。
「僕は自分を貫きますよ!」
 おや、ここにもう一人、こんなこと言う人がいたんだね。私と相棒はそのとき、互いに眼を見交わして微笑み合ったっけ。

 ところがこのモリコー氏は、実はカメレオンのような人間だったと、あとから分かった。周囲の雰囲気を巧みに感じ取り、自分の言動をコロコロと変える。確かに彼は、いつだって自分でいる。なぜって、流転が彼の本性なのだから。そして彼は、いつだって前進している。なぜって、彼の見ているほうが前なのだから。

 このモリコー氏には散々な目に会わされたので、今でも私は、自分という基準を持たない人間が、「私は私です」とか、「これが私の生きる道です」とかと言うのを聞くと、閉口する。自分のない人間がそう言うとき、それは、彼らのやることなすことすべてを自己肯定し正当化する無敵の言葉と化する。
 本当は中身が伴わないので、すぐにボロボロとボロが出るのだけれど、その度に、かの言葉を印籠のように振りかざすのは、傍から見れば単なる開き直りでしかない。

 自分は自分、と宣言する前に、自分の中身を客観化しろ、と言いたい。

 画像は、プノー「蝙蝠女」。
  アルベール=ジョセフ・プノー(Albert-Joseph Penot, 1862-1930, French)

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