元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ジャーニー・オブ・ホープ」

2009-02-11 06:46:02 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Journey of Hope)90年スイス作品で、米アカデミー賞外国語映画部門受賞作。トルコ東南部の小さな貧しい村に住む夫婦が、小さな息子を連れてスイスへ密入国しようとする話である。映画は一点の救いもなく、この家族の悲惨な旅を凝視していく。

 バスでイスタンブールに出た一家は、仲介人から偽造パスポートを受け取るが、子供の分は用意していないと言われ、やむなく貨物船の船室にもぐり込んでナポリへ。そこで知り合ったトラックの運転手がスイス人で、国境まで連れて行ってもらうが、入国は許されず、列車でミラノに送還。密入国ブローカーのもとに行き、なけなしの金をはたいてマイクロバスでアルプス山麓へ連れて行ってもらう。悪天候のもと、彼らは雪山を超えて国境までたどり着くのだが・・・・。

 監督のクサヴァー・コラーはスイス人である。このため、どうしても視点がスイス側によってしまうのは仕方がない。主人公はどうして危険なスイスへの旅を思い立ったのだろうか。先にスイスに移住した従兄弟からの一枚の絵はがきに“こっちは天国だ”という甘い言葉があったからか。たったそれだけのことで彼は土地も家畜も売り払い、周囲の反対も無視して危険な旅に出かけたのか。さらに彼は子供にパスポートが必要だということも知らず、うさんくさいブローカーを疑うこともしない。単に貧しい暮しがイヤだから安易に他国への移住を求める無知文盲の輩、極端な話、そういう風に描かれているといってもいい。移住への強烈な動機が示されていないのだ。

 ヨーロッパでは第三世界からの移民が社会問題化している。そのため排他的な極右勢力の台頭を招いているが、この映画は安易にやってくる移民側に問題がある、というスタンスをとっている。もっと移民の視点で事態を描くべきではなかったか。ただ仕事があるから、稼げるから、という理由だけで簡単に故郷を捨てられるとは、どうしても思えないのだ。

 ラストシーン、主人公が面会に来たトラック運転手に言う“あなたと友達になりたかった”というセリフの“あなた”とはいったい誰か。映画の中ではたぶんスイスをはじめとする先進国の人々、のことだと思うが、私はこの映画の観客のことではないかと思った。つまり、興味ある題材でありながら、突っ込みが足りない作品に仕上げてしまった作者の、観客に対するエクスキューズではないかと感じたのは私だけだろうか(やっぱり私だけかなあ)。
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「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」

2009-02-10 06:34:00 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Revolutionary Road)早い話が“夫婦喧嘩は犬も食わない”ということなのだ。誰だって結婚するまでは互いに相手への希望とか意見とかを持っている。しかしいざ一緒になってみると、そう簡単に自分の主張は通らない。少し前まで他人だった二人が一つ屋根の下に住むのだから、葛藤は生じて当然なのだ。そして妥協点を見出して何とか上手くやっていく。夫婦なんて、そんなものである。

 ただし、この映画の主人公達のようにエゴイズムに似たプライドを捨てきらない場合は、悲劇に繋がる。50年代のコネチカット。新興住宅地に暮らすフランク(レオナルド・ディカプリオ)とエイプリル(ケイト・ウィンスレット)は、二人の子供がいる一見幸福そうな若夫婦だ。しかし、彼らは独身時代の拘りを捨てきれない。

 夫は父親に反発していたが結局父と同じ会社に入ってしまい“こんなハズじゃなかった”という悔恨の念が内心くすぶっている。妻はもともと女優志望で、ひょんなことで結婚してしまったけれど自分はこのまま終わってしまう人間ではないと固く信じている。だが、そう思っているのは当人達だけで、端から見れば平凡な勤め人と平凡な主婦でしかないのだ。通常、結婚後も見果てぬ夢を追っているのはダンナの方が多いのだが、本作では主にカミさんである点が興味深い。

 彼女は退屈な日常を打破するため、何とすべてを捨ててパリに移り住むことを提案する。フランクは戦時中に欧州戦線に配属され、パリにも滞在したことがあり、全く縁のない場所でもない。一度はその気になる彼だが、職場で開き直って書いた業務提案書が上司に認められ栄転を打診される。そうなると仕事に専念せざるを得ないのが男というものだ。たちまち巻き起こる妻との諍い。やがて暗転。

 監督のサム・メンデスは出世作「アメリカン・ビューティー」でも取り上げた“人生の皮肉”というテーマを、今回はケレン味を極力廃して高レベルの普遍性を伴って観客に問いかける。現実を見ようとしない妻が悪いのか、そんな彼女を自らも屈託を抱えたまま最後まで御しきれなかった夫に非があるのか・・・・。いや違う。二人は真摯すぎたのだ。明け透けな“真実”から目をそらして功利主義的な“欺瞞”を粉飾することこそが、人生の秘訣である・・・・場合も有り得るという、悟りの境地に達しなかっただけだ。

 主演二人の演技は素晴らしい。エキセントリックな役をさせれば並ぶ者無しのウィンスレットは余裕のパフォーマンスだが、それを受けるディカプリオの小市民的若ダンナぶりが絶品だ。一時のスランプを乗り越えて、彼は本当に良い役者になった。ロジャー・ディーキンズのカメラによる痺れるほどに美しい映像と、トーマス・ニューマンの見事な音楽。そしてセンス抜群の衣装デザイン。聞きやすい台詞まわしひとつにも細心の注意が払われた、米国の秀作だ。
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「猫が行方不明」

2009-02-09 06:25:09 | 映画の感想(な行)
 (原題:Chacun cherche son chat )96年作品。パリの下町に住むメイクアップ・アシスタントのクロエ(ギャランス・クラヴェル)はバカンスに出かける間、飼っている猫を知り合いのおばあさんに預けるが、帰ってみると猫は行方不明。必死で猫を捜すうちに、彼女は今まで知らなかった人々と触れ合うことになる。監督は「パリの確率」や「スパニッシュ・アパートメント」などのセドリック・クラピッシュ。

 黒猫に“グリグリ(灰色)”という名前をつけて一人悦に入っているような自己完結型おたく風スノッブで、男性関係で傷つきたくないためゲイの男と一緒に住む、何とも付き合いきれない性格のヒロインが、猫捜しの途中でいろんな人に会ううちに、少し世界が広がったような気がして一人で喜んだとさ。めでたしめでたし・・・・という映画である。ま、誰でもこういう経験はあるんじゃないかな。普段口をきかないような層と少しばかり仲良くなって、あたかも彼らのすべてを知ったかのように優越感を覚えるというような・・・・。

 もちろんそれが悪いってことじゃない。何もしないより数段マシだ。しかし、そんな些細な、とりとめのない“気分”を主題にして1時間半の映画にするってことが、どうも愉快になれない。本来これは20分程度の、オムニバス映画の一編として製作される予定だった。それがちょっといい話だったんで、長編にしちまった。結果は短編の題材を無理矢理引き延ばした印象しかない。観ていて困った。

 まあ、悪い映画じゃない。名所旧跡が一切出てこないパリの下町の風情は捨て難いし、脇のキャラクターは面白いし、タイトルバックの処理なんかとても洒落ていて好きである。でも、何となく自分を中心に半径3メートルの範囲だけで映画作っているようで、これは当時のフランスの若手監督全般に言えることだったが、雰囲気はいいけど骨太な娯楽性とか、大向こうを唸らせるようなハッタリとは無縁みたいで、それがとても寂しい。要するに小粒なのである。たとえばベッソンやベネックスやカラックスみたいに“オレはオレだ。他の奴なんか知らん”という身勝手な部分も欲しい気がする。
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「感染列島」

2009-02-08 07:11:56 | 映画の感想(か行)

 意外にも楽しめた。これは監督の瀬々敬久の持ち味によるところが大きい。瀬々のスタイルの特徴は“熱くならない”ことだ。対象から一歩引いてクールに捉える。これが撮る映画の題材によってはマイナスに作用することがあるが、今回は上手くマッチした。

 新型の感染症の大々的なアウトブレイクというパニック映画の一種とも言える本作で、もしも作者が熱くなりすぎてケレン味に次ぐケレン味、さらに血管切れそうな絶叫に次ぐ絶叫で押しまくったならば、これはもう鬱陶しくて観ていられない。大風呂敷広げたような設定(まあ、考えてみればそうでもないのだが)だからこそ、冷静な進行役としての演出が不可欠になってくるのだ。

 もっとも、よく見ると突っ込み所は多々ある。まず、大流行の原因となった“張本人”は事態がこうなることを予想しなかったのだろうか。それも素人ではなく専門家の端くれなのだから呆れてしまう。そして最初は鳥インフルエンザと間違われるのだが、これはどう考えても鳥フルの症状ではないだろう。エボラ出血熱か何か、もっと別の疾病であることは明らかである。当局側がいち早く患者の隔離に動いたのも納得できない。現行法ではそう簡単に非常措置は取れないと思うのだが・・・・。

 しかし、これらの疑問点も必要以上に細部を強調しないサラリとした演出と、時折挿入される荒廃した街の風景などのインパクトでかなりのレベルまでカバーしきれていると言って良い。脇のキャラクターが立っていて、医師役の佐藤浩市やカンニング竹山、事態の収拾に尽力する科学者役の藤竜也、看護婦の妻を見守る夫に扮した田中裕二などは好演だ。

 ただ、主演の妻夫木聡は良いとして相手役に檀れいというのはミスマッチだった。実年齢以上に年の差が感じられ、互いに対等の恋愛対象に成り得ていないように見える。もっと納得できるようなキャスティングが望まれた(-_-;)。

 とはいえ、話自体はフィクションでも明日にでも起こりうるかもしれない素材を選んだ製作側の目の付け所は悪くない。もっとも、この映画のようなことが勃発するのは日本ではなく中国である可能性が高い。それどころか、あの国の秘匿体質を考えると、すでに破局の萌芽は生じているのかもしれないのだ。
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“泣ける映画”なんか嫌いだ。

2009-02-07 06:30:02 | 映画周辺のネタ
 掲示板などでは“泣ける映画を教えてください”という書き込みをよく見かける。私自身も“泣ける映画を紹介しろ”と実生活で言われることがある。しかし、そもそも“泣ける映画”とは何なのか。映画を観て泣けるかどうかは受け手の人生経験や知識・教養などで大きく違ってくる。いくら他人が滂沱の涙を流していても、自分は平然としていられる映画なんていくらでもある。そもそも“映画を観て泣く”という行為にどれほどの意味があるのか。

 これが“笑える映画を教えて欲しい”というのならば話は別だ。単純にコメディを紹介すればいい。たとえ笑えなくても、映画自体が当初から笑いをメインにしていることは誰でも分かるし、たまたま自分のツボと合わなかっただけだ。対して、最初から“泣き”を狙った映画ほどシラけるものはない。

 一方“泣ける映画とは感動できる映画のことだ”という意見もあろう。だが、いくら感動したからといって涙が出るとは限らない。本当に感銘を受けたときは、席を立つのを忘れて主題について深く考えたりすることが多いのではないだろうか。もちろん泣けてくる場合もあるが、それは感動できる映画に接した場合のリアクションのひとつに過ぎない。

 お涙頂戴映画が胡散臭いことは誰でも知っているのに、それでも“泣ける映画”に対するニーズが高いということは、泣く行為そのものがストレス解消を目的とした生理現象であることを意味している。映画を観て泣くことだけを求める層は、単に泣くことによって鬱憤を晴らしたいのであり、映画のテーマについて想いを馳せよう云々といった殊勝な考えはハナから持ち合わせていない。少しでも映画鑑賞に対して能動的であろうとする受け手は“泣ける映画を教えてください”という物言いの代わりに“感動できる映画や考えさせられる映画を教えてください”というセリフを用意するであろう。

 そもそも映画を“泣けるor泣けない”というような捉え方をすることに対しては愉快になれない。そんな“泣けるor泣けない”といった価値基準を優先させてしまうと、たとえば下世話な韓国映画と映画史に残るようなヒューマン大作とが同じレベルになってしまう。ヘタすると“泣ける分だけ韓国映画の方が好き”みたいなみたいな話になったりして・・・・(^^;)。

 もちろん、映画なんてのは大衆娯楽だから、映画を観て泣いてそれで満足するのも個人の勝手であるし、そういう観客向けの映画作りも否定できない。ただし、それだけでは寂しすぎる。ちなみに私は“泣ける映画を教えてください”と言われたら、“笑いすぎて涙が出てくる映画”もしくは“あまりのくだらなさに情けなくなって泣けてくる映画”を紹介することにしている(爆)。
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「007/慰めの報酬」

2009-02-06 06:34:26 | 映画の感想(英数)

 (原題:Quantum of Solace )何やら勘違いをしているとしか思えない出来だ。まず釈然としないのは、この映画が前作「カジノ・ロワイヤル」の明確な“続編”になっていること。

 本来、このシリーズの観客は各作品を“連続したドラマの一環”として捉えてはいない。もちろん、ボンドはどういう職務の人間でどんな使命を帯びて立ち回りを演じるのかは、シリーズ全体の“お約束”として観る者に知ってもらわなくてはならないが、それぞれの作品は一話完結であり、言ってみればフラリと映画館に入って2時間ばかり浮き世を忘れて楽しみ、観た後には全然引きずらない単純明快な娯楽映画の体裁を取っていたはずだ。しかし、本作は前作を観ていないと話に入っていけない。ハッキリ言ってこういうシリアルな作り方は別の映画でやってほしいのだ。

 さらに、ストーリー自体に“余裕”がない。ひたすらタイトに活劇場面を繰り出すばかりで、一服できるところがあまり見当たらない。これは監督がアクション大作を撮った経験のないドイツ人のマーク・フォースターであることも大きいのだろう。また脚本に硬派ネタを得意とするポール・ハギスが参画しているのも愉快になれない。題材も南米の石油利権がどうのという、まるで愛想のないものだ。

 確かに出演のダニエル・クレイグはこういうタッチに合っていると言える。身体の切れ具合もかなりのものだが、色気も愛嬌もなく、ジョークの一つも飛ばせないばかりかオルガ・キュリレンコ扮するボンドガールとよろしくやる場面もない(ついでに言うと、胸毛もない ^^;)。冒頭の手に汗握るカーチェイスと、イタリアのシエナの街中を跳んだりはねたりの活劇場面は見応えがあるが、それ以外はめぼしいアクションシーンが見当たらない。シリーズではお馴染みの新兵器・珍兵器も一切無し。とにかくシリアスに攻めるばかりだ。このアプローチはすでに「007」映画の路線を逸脱して「ボーン・アイデンティティ」シリーズの類似品か何かの印象しか受けない。

 そもそもはクレイグが主役に収まった時点で、若い頃のボンドを描くならば舞台設定も原作に近い50年代~60年代に置くべきではなかったのか。そして悪の権化である“スペクター”とのバトルを賑々しく描けばそれで良かったのだ。ヘタに現代の国際問題なんかを正面から捉えようとするから、拭いがたい違和感が横溢することになる。このままでは次作は石油利権に絡む国際シンジケートやテロリストといった生臭い連中を相手にせねばならず、ますます従来のボンド映画とかけ離れるばかり。早期の軌道修正を望みたい。
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「リメインズ 美しき勇者たち」

2009-02-05 11:36:16 | 映画の感想(ら行)
 90年松竹作品。“サニー千葉”こと活劇俳優の大御所・千葉真一も監督業に乗り出したことがあったのだ。舞台は大正時代初頭の北海道の山村。人食い熊とマタギとの死闘を描く実話の映画化。ひとつ間違うと本当にチャチなゲテモノ映画になりそうな素材である。なんといっても熊の描写だ。これがヘタにぬいぐるみを多用するとシラけるし、本物を使うのは難しく、アメリカ映画「グリズリー」みたいなお笑い映画になることもある。ところがこの作品では本物とミニチュアを巧みに合成させ、熊の姿をなかなか出さないという作戦が成功しており迫力がある。ラストの対決シーンではかなり盛り上がり、さすがアクションにかけては年期の入ったところを見せる。

 ただ、脚本が面白くない。話が破綻するのを恐れるあまり思い切ったストーリー展開に乏しい。最初の部分だけ見ればラストはどうなるのかわかってしまうし、何よりもこのテの映画では以前にも「マタギ」だとか「イタズ」といった良質の作品がすでに出ており、新鮮な素材ではないことが一番のネックになっている。もっと新人監督らしいユニークな企画で勝負できなかったのだろうか。

 真田広之扮する主人公、菅原文太のマタギの親分、村松美香演じるヒロインの三人を除く登場人物たちが全然印象に残らないのは困ったものだ。マタギ部隊の他のメンバーは重要なキャラクターのはずだが、これもまったく描き分けができていない。ラストの熊との戦いでは何やら作戦を立てたようだが、結局他のメンバーは出番もなく終わってしまう。「七人の侍」みたいにスゴイ奴らを一人ずつ集めるという設定にした方がもっと面白かったのではないだろうか。

 まあいろいろと書いたけど決して嫌いな映画ではない。カメラワークは優秀だし、真田広之は頑張っている(なんと、音楽も担当)。それからびっくりしたのがヒロイン役の村松美香でアクションもこなすこのキャラクターは貴重だ。楽しみな人材である・・・・と思ったら、本作限りで姿を消してしまった。残念なことだ。
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「英雄の条件」

2009-02-04 06:31:13 | 映画の感想(あ行)
 (原題:RULES OF ENGAGEMENT )2000年作品。今のアメリカ映画界は中東での米国の振る舞いに対する批判的な視点が目立つが、少し前まではこういう一方的なアメリカ支持の映画が撮られていたことには脱力してしまう。イエメンでアメリカ大使館を包囲したデモ隊に米軍が発砲。事態を重く見た米政府は、作戦の指揮を執ったチルダーズ大佐を軍法会議にかけるが、大佐は無実を主張する。彼はベトナム戦争時の戦友で弁護士のホッジスに調査を依頼し、法廷闘争に挑む。

 原題を直訳すれば“交戦規則”であり、当然映画の焦点は大佐のデモ隊への銃撃命令がその規定に準じたものであるのかどうかということに収斂していく。しかし、これは出来レースなのだ。よく考えてみれば誰だって分かることだが、大佐に罪がなかったとしたら、命令系統の主管である軍当局(つまりは米国政府)に責任があるのだ。しかし、そうなると国際問題にまで発展する。よって、何が何でも大佐一人に罪を負ってもらわなくてはならない。だが、娯楽映画という作品の性格上、そうなってしまうのは気勢が上がらない。ならばどういう決着の付け方をするか・・・・このあたりが、いかにも夜郎自大な当時のアメリカ映画のスタンスを目の当たりにするようでやりきれない。

 早い話が、大佐の判断は正しくて、彼が所属する軍の行動にも何も問題はなくて、もちろん米政府にも悪影響を与えないという“結論”をデッチあげているのだ。槍玉に挙げられている“交戦規則”に抵触しないような条件、それはデモ隊が一方的な“悪の集団”であることを強調することである。しかもその“真相”は映画の途中まで伏せられているという阿漕さだ。

 確かに、銃を振りかざして襲ってくれば、それがたとえ女子供であろうとも戦時法上では「敵」であり、応戦して掃射してしまうのは当然。その意味では大佐の行動は正当なんだろうけど、こんなやりきれない話を大作映画っぽく仕上げてもらっても観る方は楽しくも何ともない。

 ウィリアム・フリードキンの演出は重厚で、トミー・リー・ジョーンズとサミュエル・L・ジャクソンの演技も見応えがあるのだが、筋書きがこれでは評価する気にはなれない。アメリカ人の保守派以外には何ら存在価値のない映画である。
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「悪夢探偵2」

2009-02-03 06:33:39 | 映画の感想(あ行)

 前作よりも落ちる。他人の夢にサイコダイブする特殊能力を持つ主人公という荒唐無稽な設定ながら、パート1はひとつの難事件の解決という明確な目標に向かってドラマは進んでいた。たとえ相棒の女刑事を演じた役者が超大根であっても(笑)、ドラマツルギー自体にブレはないので観る者は安心して物語り世界に入り込めた。しかし、このパート2は焦点がまるで絞り込めていない。

 悪夢探偵・京一が、いじめていた相手が夢に出てきてうなされると訴える女子高生の依頼を、例によって嫌々ながら引き受ける。やがて彼女とつるんでいじめに荷担していた級友たちが謎の死を遂げるに及んで事態は風雲急を告げることになるのだが、話はその筋道へ収斂していかない。

 いじめを受けていた女生徒が、今は亡き京一の母親のキャラクターと似ていることに気が付いた彼は、不遇な子供時代を回想することになる。しかし、この部分はやたら長いばかりで事件そのものとは最後までシンクロしないのだ。そればかりか怖がらせたいのか失笑させたいのか分からないような弛緩したイメージばかりが並び、観る方は脱力するしかない。気が付いてみれば、事件の真相は藪の中。別に滔々と説明する必要はないが、暗示も何もないのではフラストレーションが溜まるばかりだ。

 さらには依頼人の女子高生がラスト近くには“ああいう風”になってしまうのも意味不明。まさか次作で彼女を京一の“助手”として起用するための下準備ではないかと、いらぬ勘繰りもしたくなる。元より塚本晋也の作品に明確な起承転結の構図を期待しても仕方はないのだが、これだけ話のまとまりに欠けるとは、いくら何でも失敗だろう。

 主演の松田龍平は、まあいつも通りだ。特筆すべき点はない。母親役の市川実和子はさすがにこの手の作品にはうまく溶け込み、屹立した持ち味が全開だ。常軌を逸した部分と、ふと垣間見せる優しさとが絶妙のコンビネーション。だが、見立ての悪いストーリーの中ではその健闘ぶりも空回り気味なのは残念だ。ヒロインを演じる三浦由衣は影のある不敵な面構えが印象的な新鋭。たぶん監督のお眼鏡に適っての起用だろうが、楽しみな人材ではある。
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「カストラート」

2009-02-02 06:32:41 | 映画の感想(か行)
 (原題:Farinelli il Castrato )94年作品。18世紀ヨーロッパ、絶大な人気を誇ったカストラート(ボーイソプラノを維持するため去勢された男性歌手)のファリネッリ(ステファノ・ディオニジ)とその兄の作曲家(エンリコ・ロ・ヴェルソ)の20年にわたる軌跡を追う、「めざめの時」などのベルギーのジェラール・コルビオ監督作品。

 さて、この映画のドラマ部分はどうでもいい(私も半分忘れてしまった)。「仮面の中のアリア」でも音楽の持つ喚起力を見せきったコルビオ監督に対しては主題やらドラマツルギーなどは最初から期待していないし、その方面の実力もないと思う。見所は現代によみがえったカストラートの天翔ける声とそれが巻き起こすセンセーションだ。テレク・リー・レイギン(カウンターテノール)とエヴァ・マラス=ゴドレフスカ(ソプラノ)の声ををコンピューター合成して、誰も聴いたことのない、それでいてカストラートというのはこういう声だったのだろうと観客に納得させてしまう見事な音楽演出に舌を巻く。

 加えて正確な時代考証と豪華絢爛たるステージング。ファリネッリが舞台に立つだけで、スクリーン上に祭が出現したかのごとく画面が輝き出す。演じるディオニジとバックの声がピタリと一致し違和感がまったくない。

 イギリス渡ったファリネッリは当時の天才作曲家ヘンデルの歌曲を手掛けることになる。ハデだがしょせん装飾音過多の下世話な作風の兄の作品と比べ、ヘンデルの曲はまさに格が違うというか並外れたものだが、それをシロートさんの観客にもわかりやすく見せてしまうところもなかなか・・・・(当時ヘンデルの楽曲は一般受けしなかったらしいところも描かれるが)。

 ワルテル・ヴァンデン・エンデのカメラは暖色系の映像に豊かな陰影を付けた格調高いもの。美術・衣装も素晴らしい。特にファリネッリの舞台コスチュームは特筆もので、これはもうグラム・ロックの世界である。ドラマ部分は退屈だし、映画そのものの感銘度を求める向きには敬遠したいが、良くできたビデオ・クリップ集として見ればこれはもう極上だろう。それにしても、弟が前戯を担当し、兄が挿入するという“変則3P”のシーンがところどころ出てくるのは笑ってしまった(たぶん原案の段階では深い意味があったのだとは思うけど)。
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