元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

勝手に選んだ2010年映画ベストテン。

2010-12-28 06:32:35 | 映画周辺のネタ
 2010年も終盤になり、まことに勝手ながらここで2010年の個人的な映画ベストテンを発表したいと思う(^^;)。



日本映画の部

第一位 おとうと
第二位 川の底からこんにちは
第三位 オカンの嫁入り
第四位 キャタピラー
第五位 告白
第六位 ケンタとジュンとカヨちゃんの国
第七位 おにいちゃんのハナビ
第八位 海炭市叙景
第九位 書道ガールズ!! わたしたちの甲子園
第十位 REDLINE



外国映画の部

第一位 瞳の奥の秘密
第二位 パリ20区、僕たちのクラス
第三位 第9地区
第四位 キャピタリズム マネーは踊る
第五位 マイレージ、マイライフ
第六位 (500)日のサマー
第七位 ハート・ロッカー
第八位 オーケストラ!
第九位 息もできない
第十位 フローズン・リバー

 邦画の傾向で印象的だったのが、疲弊する地方経済や惨めで寂しい庶民、特に不遇な若者を扱ったものが目立つこと。若いのに将来に何の希望も持てず、その日その日を乗り切るのに精一杯で、向上心なんかどこかに置いてきたような感じだ。後ろ向きで閉塞感が立ちこめる社会情勢を、ようやく映画も反映させるようになってきたことは納得出来る。政府はこんな状況に対して何の手も打っていないようであるし、おそらく今後も暗くて苦い青春群像がスクリーン上で映し出されることだろう。

 対して、取って付けたような時代劇の乱造には呆れるばかり。数年前からの団塊世代のリタイアに伴い、映画会社がシニア層の顧客の掘り起こしに取り掛かったことは分かるが、どれもこれも話にならない出来だ。どうせこの世代には、映画館に通い詰めて本格的な作品に接してきた者はそれほど多くはない。大半がお茶の間でテレビの時代劇を楽しんできたクチである。だからテレビ的なチマチマとした画面をスクリーンで見せられても、観る側の多くは何の違和感も覚えないのだろう。

 就職難やリストラで悩んでいる現役世代と、小金を貯め込んで“我関せず”とばかりに自分のことしか考えない団塊世代。映画作りの面でも、この憂鬱な“二重構造”はこれからも続いていくのかもしれない。

 なお、以下の通り各賞も選んでみた。まずは邦画の部。

監督:山田洋次(おとうと)
脚本:呉美保(オカンの嫁入り)
主演男優:浅野忠信(酔いがさめたら、うちに帰ろう。)
主演女優:寺島しのぶ(キャタピラー)
音楽:富田勲(おとうと)
撮影:リー・ビンビン(ノルウェイの森)
新人:錦戸亮(ちょんまげぷりん)、水原希子(ノルウェイの森)、石井裕也監督(川の底からこんにちは)

 次は洋画の部。

監督:ファン・ホゼ・カンパネッラ(瞳の奥の秘密)
脚本:ニール・ブロムカンプ、テリー・タッチェル(第9地区)
主演男優:ジェフ・ブリッジス(クレイジー・ハート)
主演女優:ヨランド・モロー(セラフィーヌの庭)
音楽:ハンス・ジマー(インセプション)
撮影:フェリックス・モンティ(瞳の奥の秘密)
新人:アナ・ケンドリック(マイレージ、マイライフ)、クリスティーナ・アギレラ(バーレスク)、ダンカン・ジョーンズ監督(月に囚われた男)、ニール・ブロムカンプ監督(第9地区)

 ついでに、ワーストテンも選んでみる(笑)。

邦画ワースト

1.悪人
2.ソラニン
 以上2本は世相を映し出したような2010年のトレンドである“ダメな若者”を描いているが、ベストテンに入れた作品群に比べると描き方が甘い。問題意識の欠如であろう。
3.ロストクライム 閃光
4.行きずりの街
5.桜田門外ノ変
 質的にほとんど全滅状態の時代劇を、この映画に代表させてもらった。“上から目線”の作劇と安っぽい画面。観ていて萎えるばかり。
6.人間失格
7.さらば愛しの大統領
8.孤高のメス
9.借りぐらしのアリエッティ
10.ゴールデンスランバー

洋画ワースト

1.しあわせの隠れ場所
 別に本作が特別に出来が悪いというわけではない。単なる“凡作”だが、この程度の演技で大賞をもらえた主演女優に対しては、愉快ならざる気分を抱いてしまう。
2.NINE
3.ゾンビランド
4.ソルト
5.プレシャス
6.ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い
 いかに苦労して公開にこぎつけたかを前面に出すような宣伝は、どうして今まで公開されなかったのかをも考慮して、実施に移すかどうかを考えるべきだろう。
7.アンナと過ごした4日間
8.カティンの森
9.戦場でワルツを
 いずれも、作家性の押し付けが鬱陶しい。
10.マチェーテ
 おちゃらけ映画を撮るときは、手加減は無用。それが徹底していないから、ワーストに入ってしまうのだ(爆)。

 さて、2010年における“企画賞”は、何といっても東宝系の劇場で実施した「午前十時の映画祭」である。要するに有名な映画のリバイバル特集なのだが、スクリーンで観たことのない層や、若い頃に接したけどもう一度観たいと思っているオールドファンを集めてなかなか盛況だったようだ。

 原則として朝一番のみの公開。そして週替わりで番組が変わっていくあたりも、マーケティング面でよく考えられていた。まるで昔の名画座の雰囲気だ。

 やはり映画は映画館で観るものなのだ。シニア層を狙った御為ごかしの時代劇ブームよりも、昔の映画を銀幕に再現してもらった方が素直に嬉しい。2011年も継続するらしいが、ぜひとも他の配給系でもやって欲しいと思う。
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「男と女」

2010-12-27 06:38:01 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Un Homme Et Une Femme )66年作品。クロード・ルルーシュ監督の代表作にして、第19回のカンヌ国際映画祭大賞受賞作。私は今回のリバイバル公開で初めて観た。公開当時はスタイリッシュな雰囲気と映像で話題をさらったらしいが、現時点でも十分にモダンでオシャレである。それどころかこれ以上にファッショナブルな映画は、今もほとんど存在しないのではないだろうか。

 パリ郊外にある寄宿舎で、偶然出逢った男と女。二人ともそこに子供を預けていたのだ。女の夫はスタントマンだったが、撮影中に殉職していた。そして男の最愛の妻も、夫のレース事故を悲観して自ら命を絶っている。その心の傷が癒えない二人だが、互いにときめきを感じて手探りで近付こうとする。

 主人公達が怖い物知らずの若者ではなく、人生の哀歓を知っている中年男女だというのが良い。すべてを忘れて恋に身を任せられるほど若くはなく、背負っているものも大きすぎる。ただ、このまま子供のためだけに人生を費やしても良いと思い込んでもいない。愛を求める想いがストレートにではなく、一歩ずつ手順を踏んで進んでいく、その味わい深さ。



 成就したと思ったら、昔のしがらみから抜け出せない自分に気付いたりもする。それでも、乗り越えられると信じている彼らと作者の一途な気持ちが、観る者を引っ張ってゆく。

 ハッキリ言って、ストーリーはありきたりだ。でも、人生なんてほとんどが“ありきたり”なのである。その“ありきたり”の中にドラマがあるのだ。平易な筋書きを珠玉のラヴ・ストーリーに仕上げるルルーシュの演出と、ピエール・ユイッテルホーベンの脚本には舌を巻くばかりだ。

 そして男の職業がカーレーサーであり、女は映画の仕事に就いている。ヴィジュアル的なアピール度が高い素材だが、浮ついた描写は一切ない。地に足の付いた捉え方をしているからこそ、違和感を覚えないのだ。

 主演のアヌーク・エーメとジャン=ルイ・トランティニャンも実に絵になる。二人とも飛びきりの美男美女ではないのだが、渋さと円熟味を前面に打ち出したパフォーマンスで魅了する。さらにパトリス・プージェのカメラと映画音楽史上に残るフランシス・レイの名スコアとのコラボレーションは、まるで夢を見ているかのような陶酔感を与えてくれる。

 カラーとモノクロが交錯する映像は、一説にはフィルムの調達状況からやむを得ずそうなったらしいが(笑)、巧みな編集はそれをまったく感じさせない。何度でも観たくなる恋愛映画の傑作で、良質な映像ソフトを保有したくなるほどだ。とにかく、スクリーン上で接することが出来て本当に良かったと思う。
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「パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち」

2010-12-26 08:04:43 | 映画の感想(は行)

 (原題:Pirates of the Caribbean: The Curse of the Black Pearl)2003年作品。「アルマゲドン」や「パール・ハーバー」でお馴染みのプロデューサー、ジェリー・ブラッカイマーらしい、いかにも“大味なスペクタクル編”だ。こんな娯楽活劇は短い上映時間で切り上げるに限るのだが、脚本が冗長で二時間半も引っ張るハメになっている。

 19世紀のカリブ海を舞台にした活劇編。謎と陰謀が渦巻く黄金のメダルを巡り、海賊と若き男女の運命がミステリアスに交錯するという筋書き。キャストはジョニー・デップやオーランド・ブーム、そして当時十代だったキーラ・ナイトレイなど、けっこう豪華。監督は「ザ・リング」のゴア・バービンスキー。

 本作のダメさ加減がよく出ているのが終盤の立ち回りで、宝が隠されている島と海賊の船、そして彼らを追う海軍の船の三カ所を、登場人物たちが行ったり戻ったり出たり入ったり、それを何回も繰り返し、観ていて面倒くさくなってしまう。もっとピシッと単純明快にできないものか。

 各キャストの演技にしても、ストレートに行っちゃうと時間が余るせいか、やたらもったいぶった振る舞いに終始しているのには脱力。カリブの明るさをパァーッと出していない薄暗い画面と色づかいにも興ざめだ。

 SFXはそこそこ頑張っているけど、同じ「ガイコツ軍団との死闘」なら、大昔の「アルゴ探検隊の大冒険」の方がよっぽどインパクトがあった。御存知のようにシリーズ化されているが、私はこの一作目だけで観る気力を失った(笑)。
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「ノルウェイの森」

2010-12-25 21:59:21 | 映画の感想(な行)

 日本の文学作品の映画化を外国人の監督が担当するという、いかにも際物めいた企画に少し二の足を踏んだことは確かだが、実際観てみるとなかなか面白い。それどころか、こういうシャシンは日本人ではない演出家の方が合っていると思った。

 1960年代末、高校時代の親友キズキが突然自殺してショックを受けた主人公のワタナベは、誰も知らない新しい土地で生活するため東京の大学に進学する。ある日、キズキの幼馴染みで恋人だった直子と偶然に会う。逢瀬を続ける二人だが、一夜を共にしたことがきっかけとなり、直子は次第に精神を病んでいく。京都の療養所に入ってしまった彼女を愛しながらも、ワタナベは大学で出会った緑にも同時に惹かれていく。やがて、直子との別れが待っていた。

 私はベストセラーになった原作を読んでいないし、それ以前に村上春樹の作品自体に一度も触れたことがない。だから本作がどれだけ村上の筆致を再現しているかは分からないが、少なくとも独特の世界を構築させているとは思う。

 いかにも純文学らしい、非・口語的な気取った言い回しや、実社会を舞台にしていても何やらこの世のものではないような浮遊感を、ほとんど違和感を覚えさせずに提示出来ているのには感心した。これをヘタにリアリズム志向の日本人の映像作家が手掛けたら、目も当てられない結果になっただろう。

 作品自体のテーマとしては、おそらくは喪失やコミュニケーションの不在に悩みながらも、愛し合えることを信じて前を向かねばならない人間の“業”を表現したいのであろう。本作ではそのテーマが多くはセリフ(モノローグ)によって語られている。これは通常映画化するに当たっての“禁じ手”であり、たいてい“映画は映像によって主題を語るべきだ”との正論によって批判される。しかし、この映画に限っては日本語のセリフを十分把握出来ない外国人監督起用の“怪我の功名”と言うべきか、セリフ自体を映画のエクステリアの一つとして処理してしまうという、実に玄妙な成果に結実している。

 トラン・アン・ユンの演出は丁寧で、優秀な通訳が付いていたせいか、キャストの動かし方にはさほど不自然なところはない。主演の松山ケンイチと菊地凛子は演技面で健闘しているが、個人的に一番印象に残ったのは緑に扮した水原希子だ。

 これまで演技経験がないという彼女のパフォーマンスはちょっと見るとヘタクソにも思える。しかし、その硬さゆえに本作の雰囲気に合致しているのだ。何やら彼女一人だけが他の出演者とは別の次元に属しているような感じである。いわば、他のキャストが良くも悪くも“演技をしている”という姿勢を見せているのに対し、水原は作品世界から“こちらにやって来た”というオーラをまとっている。挑発的なルックスも含めて実に面白い素材で、今年の新人賞の有力候補だろう。

 リー・ビンビンのカメラワークは素晴らしく、ジョニー・グリーンウッドの音楽も申し分ない。オリジナル・スコアの他にもビートルズのお馴染みのナンバーをはじめ、ドイツの伝説のグループ「カン」の楽曲を起用しているあたりもセンスが良い。原作のファンが満足する出来映えかどうかは分からないが、清澄な映像を堪能出来るだけでも十分観る価値はある注目作だ。
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大濠公園のクリスマス・イルミネーション。

2010-12-24 06:33:16 | その他

 福岡市中央区にある大濠公園で、今年からクリスマスのイルミネーションが展開されるということなので、見に行ってみた。

 福岡市では中央区天神にある警固公園のイルミネーションが知られているが、それよりもはるかに大きい大濠公園でどのように飾り付けをするのかと思っていたら、堀のまん中に伸びる横断通路に仕掛けを施していた。これならば広い範囲から見えるというものだ。

 かなりの人手だったが、それも頷けるほどの美しさだった。おそらくは今年公園内にオープンしたスターバックス・コーヒー店の肝煎りで始めたのではないかと思う。なぜなら、この店の前が見物のベストポイントだったからだ(爆)。

 ツリーの明かりが水面に映えて、なかなかムードが良い。来年以降も続けると思われるので、福岡市の冬の名物がまた一つ増えたという感じだ。

 ただ、大濠公園は野鳥がたくさんいることで知られる。特に冬場は花火大会が行われる夏よりも渡り鳥の数がずっと多い。夜中にこんなに混雑していては、ロクに眠れないのではないかと、いらぬ心配をしてしまった(笑)。
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“自分探し”なんてマヤカシだ。

2010-12-23 07:24:35 | 映画周辺のネタ
 2002年に「Laundry[ランドリー]」という映画を観て、大いに気分を害したことがある。技巧的に稚拙なのはもちろんだが、窪塚洋介扮する知恵遅れの青年と仲良くなる若い女(小雪)の扱い方に、この新人監督(名前は失念)の人間観察の浅はかさが如実に現れており、そのへんに愉快ならざる感想を持ったのである。

 彼女は不遇な日常から外れ、遠い街で変わった人々と付き合うことにより、(警察の御厄介になることがあったものの)結果として自分を取り戻して人生に前向きに取り組むようになる。映画はこれを共感を込めて描こうとしており、いわば“自分探し”の旅をしてみたら得をしたという設定である。

 しかし、私に言わせればこんなのはウソっぱちだ。映画としてはそのウソ臭さを確信犯的に全面展開するかあるいは徹底的に突き放すという方法もあったのだが、この監督はそこまで素材に対しての批判精神を持ち合わせてはおらず、ただ微温的で退屈な映像が流れるだけであった。



 巷で言われる“自分探し”とは、ここにいる自分は本当の自分ではなく、日常を変えればそれを見つけられるという方法論のことらしいが、それ自体が紛い物であることは論を待たない。そもそも人間は自分一人では“人間”になれない。他者あるいは共同体とかかわり合うことによって初めて“人間”になるのである。だから他者との関わりにおける自分以外に“何か別の自分”はない。他者との関係性そのものが“自分”なのである。

 今ここに日常を生きている“自分”が“本当の自分”であり、非日常に逃避することで“何か別の自分”が現れてくるはずもないのである。日常が不遇なのは自分に他者との関係性を構築する力がないためだ。

 “自分探しの旅”とは単に関係する他者を意識的に少なくする、あるいは他者から逃避することに過ぎない。それで“何か別の自分を見つけられた”と思ったとしても、それは関係すべき他者からエスケープしたことによる“気苦労の軽減”でしかないのだ。

 “自分探しの旅”の終着点で“新たな自分”が別の日常を形成しようとしたら、またしても関係する他者の数が増えることにより“不遇な日常”が再発するだけである。今ここにいる自分がこの場所で他者との関係を改善しない限り、別の場所で“本当の自分”を見つけようとしても無駄なのだ。

 根岸吉太郎監督の「遠雷」で、退屈な農村の暮らしに嫌気がさして蓮っ葉な女と逃げ出した男(ジョニー大倉)が、結局は故郷に舞い戻ってきて主人公(永島敏行)にこう洩らす。「しょせん男と女、どこへ行ってもやることは一緒だよ」。しがない男が漫然と日常を変えたいと思い、漫然と外へ出たものの、漫然としたまんまで何も変わらなかったというやるせなさを描いて出色であった。「Laundry(ランドリー)」の監督には絶対撮れないシークエンスである。

 日常を外れるのは単なる“気分転換”であって“別の自分”なんてどこにも見つかるはずもない。“自分探し”が市民権を持ってしまう風潮は若者のフリーター・ニート増加と微妙にシンクロしているようで、“日常”と戦えない社会構成員全体の虚弱化を現しているとも思われる。そうなったのは、何も不況のせいばかりではないだろう。
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「ロビン・フッド」

2010-12-22 06:37:45 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Robin Hood)舞台設定からいえば以前リドリー・スコットが監督した「キングダム・オブ・ヘブン」(2005年)の続編みたいな作品だが、質の面では“前作”よりもかなり落ちる。それは本作に現代性が欠如しているからだ。

 十字軍遠征を題材にした「キングダム~」は、今の時代にまで尾を引く中東問題や戦争の理不尽さをスクリーン上に照射することに成功。しかもそれらがスペクタクルな史劇やヒーローものとしてのエンタテインメント性と両立していた。対してこの映画には訴求力がない。

 そもそもロビン・フッド自体が架空の人物である。いくら周辺に史実を散りばめても、実在感が足りなくなるのは仕方がない。さらにこの作品はイングランドの十字軍遠征の兵士だった主人公が、義賊としてシャーウッドの森に住み着くようになったくだりを描いている。つまりは“ロビン・フッド・エピソード1”みたいな話であり、過去に映画や読み物で親しまれたような勧善懲悪物ではない。結果的に12世紀末当時のイギリスにおけるジョン王の圧政というシビアな(ある意味現代にも通じる)時代背景と、後に単純な英雄談として知られるようになるロビン・フッドの物語とが上手く融合していないのだ。

 従って、マグナ=カルタに始まる王政に対する動きも取って付けたような感じになっている。ロビン・ロングストライドがどうしてロビン・フッドになったのか、それも描写不足だ。映画の中では彼の父親が立派な思想家で、それを受け継いでいるといった設定だが、その頃の彼の記憶は失われていて、ロクスリー卿の回想談によってそれを急に思い出すという御都合主義には閉口してしまった。

 マリアンやマーシャル卿、クック修道士といった脇のキャラクターの扱いも甘い。敵役のゴドフリーにしても貫禄不足だ。アクションシーンは確かに力が入っているが、R・スコット作品としてはそれほどでもない。少なくとも「キングタム~」よりも落ちる。クライマックスのドーヴァーでの合戦に至っては、スピルバーグの「プライベート・ライアン」のモノマネかとも思わせ、アイデア不足が否めない。

 主演のラッセル・クロウは相変わらずの俺様主義で、大根ぶりを気にも留めずにスクリーン上を我が物顔に動き回る。こういう素材を相手にするには精緻な脚本で抑え込むに限るが、言うまでもなく本作では上手くいっていない。ヒロイン役のケイト・ブランシェットもイマイチ精彩を欠いていて、キャラクターの練り上げが不調に終わっている。ウィリアム・ハートやマックス・フォン・シドーといった手練れも配してはいるのだが、大した見せ場もない。全体的に、カンヌ映画祭での不評が分かるような気勢の上がらない映画と言っていいだろう。

 なお、数年前の企画段階ではラッセル・クロウの一人二役という話もあったらしいが、それが実現していたら別の意味で興味深い作品(=怪作)になったかもしれない(^^;)。
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「青い春」

2010-12-21 06:29:57 | 映画の感想(あ行)
 2001年作品。高校3年の春を迎えた不良高校生達の姿を描いた群像劇。松本大洋による複数の短編を要領よく一本の映画にまとめた脚本だけでも得点高いが、それ以上にヒリヒリした暴力性を前面に出す豊田利晃の演出には感心した。

 コケ脅しのバイオレンスではなく、不良高校生どもの荒んだ内面のせっぱ詰まった表出としてのシビアな暴力がリアリティを伴って観客に迫る。「ピンポン」を観ても感じたことだが、松本大洋は人間の序列に大きなこだわりを持つ作家なのだろう。

 松田龍平(相変わらず大根。しかし、超然とした雰囲気が主人公像に合っている)扮する不良のリーダーと、新井浩文をはじめとする仲間達のランキングは決定しており、それを認めない者は破滅してゆく。その残酷なまでの割り切り方が、またある種の感慨をもたらすことも確かなのだ。

 また、マメ山田演じる小人の教師を登場させ、ドラマを一歩も二歩も引いて捉えるモチーフを用意しているところも作者の冷静さの現れだろう。観ていてちっとも楽しい映画ではないが、短い上映時間も相まって切れ味は鋭い。ミッシェル・ガン・エレファントによる音楽は素晴らしく効果的だ。
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「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」

2010-12-20 06:31:09 | 映画の感想(や行)

 悲惨な話なのに、透徹した明るさとユーモアで満ちているのは、作者の底抜けにポジティヴな姿勢ゆえだろう。つまり、どんなに辛くても心の拠り所さえあれば、運命を受け入れられるという、作者の一種の“理想”を描いている。もちろん、こういうテーマは作り手の力量が不足していると宙に浮いた話になるのだが、そこはベテランの東陽一監督、訴求力の高い作劇を実現させている。

 原作は人気漫画家の西原理恵子の元夫で戦場カメラマンの鴨志田穣の自伝的小説で、アルコール依存症のどん底状態にありながらも、離縁した妻や子供達と和解していくプロセスを追っている。

 冒頭から主人公は荒れ放題だ。酒を浴びるように飲み、家庭内暴力を繰り返し、次いで吐血して入院。何度かこれを繰り返した後、いよいよ身体に限界が訪れてアルコール病棟に入ることになる。ところが、病院で出会う風変わりな患者や医者達と接するうちに、自分を見つめ直すきっかけを掴むのだ。

 この病院内の描写がケッ作である。本人を含めた患者連中はすべて崖っぷちの境遇だが、彼らにとって病棟はそれまでのアルコール漬けの日常から隔離された、いわば彼岸の世界のような異空間である。そこで彼らは“素”の人格を取り戻すのだが、酒の力を借りて好き勝手に振る舞っていた頃とは打って変わり、性格の弱さや女々しさ、そして心の奥底に隠されていた人間らしさもレアな形で表に出てくる。

 本音と本音とがぶつかり合い、剥き出しのコミュニケーションが交錯。本人達は真剣なのに、端から見れば笑いが巻き起こる。人生は悲劇であるよりも、喜劇の側面の方が大きいのだ。そのうち、やがて本当に大切なものが見えてくる。主人公にとってそれは“家族”であった。題名にある“うち”とは家族のことだ。

 やっとの思いでアル中を脱した彼だが、すでに身体はガタが来ていて残された時間が短いことを宣告されてしまう。自分のさだめを知った彼が浜辺で家族と過ごす終盤のシーンは、切ない感動を覚える。

 主役の浅野忠信の演技は、彼のキャリアの中でも代表作になると思われるほど達者だ。ヘヴィな状況の中にも飄々とした軽さを出した妙演であり、これが力の入ったリアリズムで押し切る役者だったら重すぎて見ていられなかっただろう。

 妻役の永作博美も良い。やがて来る別れを察知しつつも、仕事と家族の世話を毅然として続け、しかも他人と一緒にいるときは弱音を吐かないという強さが映画に凛とした輝きを与えている。北見敏之や螢雪次朗、光石研、香山美子といった脇の面子も的確な仕事ぶりだ。観た後に深い余韻が残る佳編である。
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「盲獣」

2010-12-19 08:07:25 | 映画の感想(ま行)
 増村保造監督による昭和44年作品。肉体的欠損が別の感覚を過剰に刺激し、狂った世界に突入してゆくという設定は、江戸川乱歩得意のパターンだが、この映画はそのモチーフを映像面で全面展開している。

 ヒロイン(緑魔子)が暗闇の中で視力を失い、盲目の男(船越英二)との“触覚だけの世界”に入り込み、やがて破滅してゆく過程は出演者たちの力演もあってかなりの迫力。目・鼻・口など、巨大な身体のパーツが壁一面に埋め尽くされ、中央に巨大な女体のオブジェが鎮座しているアトリエの造形は噂通り見事なものだ。

 しかし、観終わっていまひとつ釈然としないのは、作者が主人公たちの行為を理屈(屁理屈と言ってもいいが)でしか考えておらず、真に彼らの感情(切迫した飢餓感)をえぐり出そうとはしていないためだ。ドロドロとした憤怒の情動の活写と異常な行為をもっと有機的に結びつけてほしかったが、何やら“コケ脅しの見せ物”に終わっている感もある。
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