元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「マンハント」

2018-02-26 06:35:00 | 映画の感想(ま行)

 (原題:追捕 MANHUNT)無駄に映画鑑賞歴が長いと、箸にも棒にもかからないシャシンにも少なからず遭遇する。ただし、本作みたいに始まって5分も経たないうちに中途退場したくなった映画はめったに無い(まあ、座った席が奥の方だったので容易に出られず、仕方なく最後まで観たのだが ^^;)。それほどこの作品はヒドいのだ。

 大阪に滞在している中国籍の弁護士ドゥ・チウが目を覚ますと、隣に女の他殺体が転がっていた。現場には彼が犯人であることを示す証拠が山のようにあり、直ぐさま逮捕されてしまう。罠にはめられたことに気付いた彼は逃走するが、どうやらドゥ・チウが顧問弁護士を務めていた大手薬品会社が裏で暗躍しているらしい。

 一方、府警の捜査一課所属の刑事・矢村は、独自の捜査でドゥ・チウを捕まえることに成功。だが、事件の概要に疑問を持った矢村は、身柄を府警本部に引き渡すことを拒否する。こうして成り行きで一緒に真実を追い求めることになった2人だが、製薬会社およびその協力組織が差し向けた殺し屋どもが大挙して襲いかかってくる。西村寿行の小説を高倉健主演で映画化した「君よ憤怒の河を渉れ」(76年)のリメイクだ。

 冒頭、場違いな演歌をバックに、場違いにレトロな裏通りにある飲み屋にドゥ・チウが入ると、日本語の怪しい女将と店員が迎え、やがて乱入してきたヤクザ連中を殺し屋の正体を現した女将&店員が血祭りに上げるという、まさに場違いなシークエンスが映し出された時点で、すでに鑑賞意欲は失せていた(笑)。

 さらに、思わせぶりに登場する矢村は、演ずる福山雅治の“何をやっても所詮フクヤマ”のルーティンを一歩もはみ出すことがなく、鼻につくキザったらしさが全開だ。

 矢村がどうしてドゥ・チウを逃がすのか分からず、そもそも敵方がなぜわざわざドゥ・チウをハメたのか、明確な説明は無い。あとは脚本の不備を逐一指摘するとキリがないほどの、矛盾に満ちた作劇の連続。舞台は大阪(およびその周辺)ということになっているが、地理的な感覚がオカシイのは御愛敬としても、この薄っぺらで深みの無い風景描写は何とかして欲しい。

 監督のジョン・ウーは“意味なく舞う白い鳩”や“横っ飛びでの銃撃”などの馴染みのネタを今回も披露しているが、そこにはかつてのような緊張感や高揚感は見られず、まるで売れなくなったコメディアンの昔の芸に付き合わされているようだ。ドゥ・チウ役のチャン・ハンユーをはじめチー・ウェイ、國村隼、竹中直人、ハ・ジウォン、池内博之といったキャストはパッとせず、矢村の部下に扮する桜庭ななみはアイドル演技だし、斎藤工や倉田保昭といったクセの強い面子も使いこなせていない。とにかく、早々に忘れてしまいたい映画である。
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「丹下左膳余話 百萬両の壷」

2018-02-25 06:26:28 | 映画の感想(た行)
 昭和10年日活作品。若くして戦地で散った伝説の映画監督・山中貞雄の(フィルム断片を除いた)現存している3本の作品の中の一つ。素晴らしく面白い。この映画が作られれてかなりの年月が経過しているが、その間に果たして娯楽映画は進歩したのだろうかと、本気で思ってしまうほどだ。

 江戸享保年間、大和柳生藩の藩主である柳生対馬守は、家に代々伝わる“こけ猿の壷”が百万両のありかを示したものだと知らされるが、壷はすでに弟源三郎の婿養子の引き出物として譲ってしまっていた。柳生家の家臣たちは秘密を知られずに取り戻そうとするが、源三郎の妻は“こんな汚い茶壺には用は無い”とばかりに屑屋に売り払っていた。その壺を偶然手に入れたのが、矢場の居候である丹下左膳。壺をめぐって左膳や源三郎、ほかに左膳と親しい矢場の女将・お藤や、矢場に転がり込む少年・安吉らの人間模様が描かれる。



 通常の「丹下左膳」シリーズの続編というか、セルフ・パロディだが、ニヒルな剣豪を家庭人にしてしまったアイデアが出色。大胆な作劇の省略法で、92分の上映時間の中に多くのエピソードを盛り込んでいながら、全くドラマが破綻しない。二転三転する巧みな脚本といい、キャラクターの立ち具合といい、ギャグの振り方といい、文句のつけようがないほど良く出来ている。招き猫をはじめとする小道具、ムソルグスキーの「禿山の一夜」などのクラシック音楽の採用、仕掛けにも抜かりは無い。

 左膳役は大河内傳次郎で、飄々とした雰囲気や身の軽さは、好人物としての魅力を印象付ける。お藤に扮する喜代三も実に良い味を出しており、左膳とのやり取りは夫婦のような佇まいを感じさせる。沢村国太郎や山本礼三郎、阪東勝太郎といった脇のキャストも申し分ない。子供役の宗春太郎は、後年「鞍馬天狗」(嵐寛寿郎主演版)で杉作を演じる。

 なお、私は本作を福岡市博多区中洲にあったシネ・リーブル博多のクロージング上映で鑑賞した。この劇場はわずか2年で営業を終えてしまったが、市内のスクリーン数が減っている昨今、今でも存続していればと思わずにはいられない。
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「花筐 HANAGATAMI」

2018-02-24 06:28:00 | 映画の感想(は行)

 大林宣彦監督の作品に接するのは久しぶりだ。しかも、本作は同監督の“遺作”になる可能性もある3時間の大作。期待は高まったが、実際に観てみると何とも評価に困るようなシャシンである。この監督は出来不出来の差が激しいが、有り体に言えば、これはどうやら“不出来”のカテゴリーに入りそうなのだ。

 昭和16年の春、17歳の俊彦は佐賀県唐津市にある大学校に通うため、叔母の圭子のもとに身を寄せていた。クラスメイトはストイックな秀才の鵜飼、虚無僧のような吉良、お調子者の阿蘇など、個性豊かな面子ばかり。俊彦は肺病を患う従妹の美那を意識するようになるが、女友達のあきねや千歳とも仲が良い。だが、戦争の影は確実に彼らに迫ってくる。圭子の夫はすでに満州に出征して帰らぬ人になっており、担当教官の山内にも赤紙が届く。そして同年12月8日を迎え、彼らは人生の岐路に立たされる。原作は檀一雄が日中戦争が勃発した昭和12年に発表した短編小説だが、時代設定を変更している。

 最初のショットから、大林監督の初期作品を思わせるような映像ギミックの洪水だ。自然の風景はほとんど無く、多くがキッチュな舞台セットの中で話が展開する。また、圭子と美那の立ち振る舞いや、同性愛を匂わせるあたり大林が自主映画として66年に撮った「EMOTION 伝説の午後 いつか見たドラキュラ」を思い起こさせる。

 とにかく力の入った作品であることは分かるのだが、感銘度は低い。それは全体の方向性が“反戦映画”という分野に固定され、作劇に限界を感じさせているからだ。

 農道を行進する兵士のイメージや、それに見立てた案山子が田んぼの中に沢山立っている場面が何度も挿入される。確かに登場人物達が辛酸を嘗めるのは、すべて戦争のせいである。それは重々承知しているものの、まるで鈴木清順監督の諸作のような奔放な映像イメージも、すべては“反戦映画”の枠内でしか捉えられていない。

 そこには清順映画には存在していた、底の見えない禍々しさや淫靡さは見られない。すべてが“語るに落ちる”レベルなのだ。加えて、同じショットが何度も映し出され、無駄に上映時間が水増しされている。大林御大の作品(しかも、単館系)であるからこそ、それらは放置されていたのだと邪推するが、一般の娯楽映画では通用しない所業である。

 窪塚俊介扮する俊彦は、いくら大林作品とはいえ言動が極端に幼い。しかも、窪塚をはじめ満島真之介や長塚圭史、柄本時生など25歳をとっくに過ぎた俳優たち(特に長塚は40歳超)が学生を演じているのは、違和感しか覚えない。一応ヒロインとの設定である美那役の矢作穂香は、見掛けが可愛いだけで表情に乏しく、観ていて面白くない。圭子を演じる常盤貴子や山崎紘菜、門脇麦といった女性陣はさすがに存在感を発揮していたが、それでけでは映画全体を支えられない。

 唯一面白かったのが、当地の重要イベントである“唐津くんち”が大々的にフィーチャされていることだ。私は何回か見たことがあるが、実に楽しい。この祭りを紹介したことは、本作の功績であろう。
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「アダムス・ファミリー2」

2018-02-23 06:53:01 | 映画の感想(あ行)

 (原題:ADDAMS FAMILY VALUES)93年作品。私は前作を観ていないのだが、元ネタであるTVシリーズは知っているので、この設定に何ら違和感はない。今回は新たにファミリーに加わる“ヒゲのある赤ん坊”と、クリストファー・ロイド扮するフェスターの恋のエピソードの二つを中心として、相変わらずのブラックな笑いが展開する。

 フェスターの結婚相手になるのはグラマラスなベビーシッターのデビー(ジョーン・キューザック怪演)。しかし彼女は連続殺人犯。フェスターの莫大な財産目当ての結婚で、当然彼を殺そうと躍起になるが、そこは“苦痛は快感”のアダムス家の一人、全然死なないあたりは笑わせる。でも、一番面白かったエピソードは、アダムス家の二人の子供がサマーキャンプに参加する話である。

 こう言っては何だが、アメリカ映画によく出てくるこの“サマーキャンプ”、私はアメリカ人の最も気色悪い風習だと思っている。ノー天気なインストラクターが出てきて、これまたノー天気なガキどもとノー天気な遊びを一日中やって頭がカラッポになるという(おー、すごい偏見)、思わず“お前ら、ヤツれたり落ち込んだりしたことねえだろ”と文句の一つも言いたくなるシロモノである。映画はこのへんを徹底的にコケにしまくるのだ。

 キャンプで元気なのは白人で金髪で可愛いけど頭悪そうな女の子たちだけ。アダムス家の二人は逃げ出そうと必死になるが、捕虜収容所なみの厳戒体制(笑)でどうにもならない。しまいには監禁されてディズニー映画を三日三晩見らされ、一時的にではあるが“笑顔の似合う可愛い子供”になってしまうあたりは大爆笑である。

 長女役のクリスティーナ・リッチがとてもキュートでよろしい。ラウル・ジュリアとアンジェリカ・ヒューストンの“火の出るような”ダンスシーンや、ご存知“ハンドくん”とフェスターのカー・チェイスとかの見せ場を織りまぜ、クライマックスはアダムス一家とデビーとの一大対決になるが、これがなかなかのジェット・コースター的展開で見せる。監督が「バラ色の選択」のバリー・ソネンフェルドなのでほとんど期待していなかったが、結構楽しませてくれた。

 なお、3作目の「アダムス・ファミリー サン 再結集」(98年)は正式な続編ではなく、TVムービーだったらしい(私は未見)。
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「THE PROMISE 君への誓い」

2018-02-19 06:37:11 | 映画の感想(英数)

 (原題:THE PROMISE )重い歴史的事実を、恋愛沙汰を交えた大河ドラマの中で語っており、幅広くアピール出来る内容になっている。まあ、観る者によっては“こういうメロドラマ仕立てではなく、ハードかつシビアに向き合うべきだ”という感想を抱くのかもしれないが、映画がエンタテインメントである限り、普遍性を持った娯楽作としてアプローチするのは正解だ。

 20世紀初頭。オスマン・トルコの山奥にある村で暮らすアルメニア人青年のミカエルは、医学を学ぶために首都コンスタンティノープルの医大に入りたいと思っていた。婚約先からの結納金を学費にして、ようやく希望が叶うことになる。そして彼は、フランス帰りのアルメニア人女性アナと出会い、惹かれるものを感じる。だがアナには、クリスというアメリカ人ジャーナリストの恋人がいた。

 やがて第一次世界大戦が始まり、オスマン帝国はアルメニア人を弾圧するようになる。ミカエルも強制労働所に送られてしまうが、何とか脱走に成功。苦難の末に故郷に戻るが、そこでトルコ軍によるアルメニア人の虐殺を目撃する。生き残った人々と共にモーセ山に立て籠もるミカエルだが、トルコ軍は執拗に追ってくる。一方、クリスはトルコの蛮行を世界に知らせようとするが、スパイ容疑をかけられ逮捕されてしまう。果たして彼らの運命は・・・・という話だ。

 ミカエルとアナ、そしてクリスの三角関係を軸にドラマは展開するが、御都合主義的なモチーフも散見される。主人公達3人は騒然とした世相の中にあって“偶然に”再会したりするし、クリスが“偶然に”フランス軍に渡りを付けるあたりも強引だ。

 しかし、それで良いのだと思う。いかに御膳立てが都合が良かろうと、彼らは真剣だ。しかも、背景にはアルメニア人の迫害という大きな事件が存在している。オスマン帝国の承継者である現在のトルコは、この事実を認めていないらしい。しかし、150万人とも言われる犠牲者数は把握出来ないのかもしれないが、相当な犠牲者が出たことは確かだろう。この理不尽な歴史の事実に翻弄される主人公達には、大いに感情移入出来る。

 テリー・ジョージの演出は往年の歴史大作映画を思わせるほどに堂々としており、リズムの乱れは無い。オスカー・アイザック、シャルロット・ル・ボン、クリスチャン・ベイルといったキャストは達者だし、ジェームズ・クロムウェルやジャン・レノも顔を出しているのは嬉しい。ガブリエル・ヤレドの音楽も万全だ。

 なお、トルコではロケが不可能なので主にスペインで撮影されたらしい。だが、ハビエル・アギーレサロベのカメラによる映像は、そのマイナス面を感じさせないほど良く出来ていた。
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「いとこのビニー」

2018-02-18 06:12:27 | 映画の感想(あ行)
 (原題:MY COUSIN VINNY )92年作品。舞台はアラバマ州の片田舎。ひょんなことから殺人犯と間違えられて逮捕されてしまった大学生ビル(ラルフ・マッチオ)とその友人。あわや電気椅子送りの大ピンチにふと思いだしたのは、ニューヨークで弁護士をしているいとこのビニー(ジョー・ペシ)。ところが、ケバい恋人と一緒にボロ車やって来た彼は、6年かかって司法試験に合格したばかりで、法廷に立つのもはじめてという頼りのなさ。おまけに口の悪さと態度のデカさで、法廷侮辱罪で留置所送りになってしまう。監督は「ナンズ・オン・ザ・ラン」(90年)などのジョナサン・リン。



 はっきり言って、別にどうということのない法廷コメディである。ラストは予想通りになるのだが、そこに至るプロットが甘い。検察側の証人を“事件をよく見ていなかった”の一点ばりで論破していくのは芸がないし、クライマックスにビニーの恋人がいきなり大活躍するのも、伏線の張り方が弱く、納得できない。全体的に演出のテンポがのろく、笑えるはずのギャグもすべてハズしっぱなしである。

 ま、取柄といえば、南部の閉鎖的な風土をコケにしまくっているあたりか。地元の警察や裁判所の人間たちと、ブルックリン育ちのビニーとのカルチャー・ギャップは、面白いといえば面白い。南部人がビニーたちを“ヤンキー”とののしる場面があるが、WASPに対する蔑称であった“ヤンキー”という言葉を、ニューヨークに住んでいるという理由だけで、イタリア系のビニーに対して使ってしまう、この屈折した南部人の性格がよくあらわされている。あと、変わった公選弁護人が出てくるシーンには笑った。

 さて、可もなく不可もないこの映画をなぜ観る気になったかというと、ビニーの恋人を演じるマリサ・トメイがその年のアカデミー賞の助演女優賞を獲得しているからである。当時の彼女は確かに可愛いし、色っぽいし、独特の動作がキュートである。でも、これで同年ノミネートされていたヴァネッサ・レッドグレーブとかジュディ・デイヴィスなんかの大物をおさえてオスカーを獲得するようなタマかというと、ちょっと疑問だ。候補で唯一のアメリカ人だったからなのか?

 それでも本国では好評だったようで、パート2の製作も予定されたとの報道もあったが(エディー・マーフィーの出演も取り沙汰されていたとか)、実現はしていないようだ。
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「スリー・ビルボード」

2018-02-17 06:48:56 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THREE BILLBOARDS OUTSIDE EBBING,MISSOURI)まったく評価出来ない。聞けば巷では絶賛の嵐で、各種アワードも獲得しているが、個人的に面白いと思えないものを持ち上げる気はさらさら無い。とにかく、筋書きやキャラクター設定をはじめ、映画のベクトルそのものが不適切な方向を示している。

 ミズーリ州の田舎町エビング。土産物屋を営む中年女性ミルドレッド・ヘイズは、寂れた道路沿いに巨大な3枚の広告看板を出す。そこには警察の無策を批判する言葉が綴られていた。彼女の娘アンジェラは、その場所でレイプされた後に殺害され、それから7か月経っても解決の目処は立っていない。そんな現状に腹を立てての所業であった。署長のウィロビーは人望が厚く、しかもガンで余命幾ばくも無い。町民はウィロビーに同情するあまり、ミルドレッドを爪弾きにする。その急先鋒がジェイソン・ディクソン巡査で、署長を敬愛するあまりミルドレッドに対して数々の嫌がらせをする。やがてミルドレッドは無謀な行動を起こすが、事態は混迷の度を増すばかりだ。

 感情移入出来る者がほとんどいない。主人公は義憤に駆られていたとはいえ、やってることはテロリストと変わらない。彼女の別れた夫はロクデナシで、殺された娘も性格が悪そうなヤンキーだ。ウィロビーは好人物かと思ったら、早々と勝手に退場してしまう。ジェイソンは不良警官で、おまけにマザコン。ロクでもない連中が、ロクでもないことをやらかす場面が芸もなく延々と続き、いい加減観ていてウンザリしてくる。

 そもそも、各キャラクターの設定そのものが、すべて作者の頭の中でデッチ上げられたもので、リアリティの欠片も無いのだ(性根の腐った人間が、手紙一通で改心するわけがない)。一部では“これはブラック・コメディだ”という評もあるらしいが、そういう御膳立ては見られず笑える場面なんか一つも無い。また“先が読めないことが面白い”との意見もあると聞くが、要するにそれは“何の脈絡も無く場当たり的に話をデッチ上げている”というのと似たようなものだ。

 第一、これは現代の話なのだろうか。出てくるテレビがブラウン管式だし、白昼堂々警官が一般市民に対して暴行をはたらいても誰も咎めない。新任の署長も張本人をクビにはするが、逮捕も何もしない。ひょっとしてこれは西部劇のパロディか? ならばいっそのことウエスタンにしてしまうべきだ。斯様なグダグダの展開が続いた後、待っていたのは拍子抜けするラストのみ。心底呆れた。

 タイトルにある3つの掲示板が、あまり存在感が無いのも難点だ。脚本も担当した監督のマーティン・マクドナーは元々は劇作家である。おそらくは、このネタを舞台でやると、ステージの真ん中に3つの掲示板がデカデカとセッティングされ、威圧感を伴ってドラマを支えるのだろう。だが、舞台と映画とは違う。単なる小道具として並べておくだけでは、何のメタファーにもならない。

 主演のフランシス・マクドーマンドをはじめ、ウディ・ハレルソン、サム・ロックウェルといったキャストは熱演だが、映画の内容がこの体たらくでは“お疲れさん”と言うしかない。
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「Hole」

2018-02-16 06:39:25 | 映画の感想(英数)
 (原題:洞)98年作品。台湾の異能ツァイ・ミンリャン監督の作品の中では、一番“分かりやすい”映画ではないかと思う。もっとも、それは同監督のフィルモグラフィにおいての話であり、一般ピープルからすればハードルはまだまだ高い。ただし、ツァイ・ミンリャン作品としては異例のポジティヴな空気感は、普遍的な娯楽性を醸し出している。

 1999年の末、激しい雨は長い間止まず、街では突然歩けなくなり床を這いずるしかなくなるという“ゴキブリ病”なる奇病が蔓延していた。古いアパートに住む美美は、上の階からの水漏れに悩まされ、修理屋に工事を依頼する。ところが修理工が誤って床に穴をあけてしまい、上階の小康という男の部屋から美美の住処が丸見えになってしまう。



 その穴からは次々と厄介なものが美美の部屋に落ちてくるようになり、そのたびに彼女は後始末を強いられる。美美は小康に何度も文句を言うのだが、次第に2人の間には連帯感のようなものが生じてくる。だが、盛大な雨漏りによって美美の部屋が水浸しになった夜、彼女は“ゴキブリ病”を発症。階下の様子が変だと気付いた小康は美美に呼びかけるが、返事がない。映画はここから急展開を見せる。

 いつまでも降り続く雨、奇病のアウトブレイク、暗鬱な表情の登場人物達など、この映画の外観やモチーフはダークでイレギュラーなものばかり。しかし、基調は孤独な男女が思いがけず出会い心を通わせるという、典型的なボーイ・ミーツ・ガールである。それどころか、エクステリアが殺伐としているからこそ、主人公2人のピュアな心情が透けて見えるのだ。

 さらには、場違いとも思われるミュージカル・シーンが挿入され、観る者の胸をときめかしてくれる。ラストはこの監督にしては珍しい処理だが、ラブコメと見まごうばかりの演出に、笑いながらも感心してしまった。

 小康に扮するリー・カンションはツァイ・ミンリャン作品の常連で、今回も優柔不断な野郎を好演。相手役のヤン・クイメイも同監督とよくタッグを組む女優だが、根の暗そうな女を演じさせると実にうまい。第51回カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞。ツァイ監督は2013年の「郊遊 ピクニック」を最後に商業映画界から引退する意向を示しているが、もっと撮ってほしい。
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「ジュピターズ・ムーン」

2018-02-12 07:27:16 | 映画の感想(さ行)

 (原題:JUPITER'S MOON)天使の目からヨーロッパを、そして世界を俯瞰しようという、大上段に振りかぶったようなスタンス。そして同時に、地べたを這いずるように煩悩に絡め取られた人々の、明日をも知れない生き方をもすくい取る。重層的で野心的なドラマだと思う。観る者によって好き嫌いはハッキリと分かれそうだが、屹立した存在感を有している作品であることは確かだろう。

 ハンガリーに入国しようとしていたシリア難民の青年アリアンは、国境警備隊に追われて父ムラッドとはぐれてしまう。挙げ句の果てに国境警備の刑事ラズロに銃撃され、死んだと思われた。だが、その時アリアンの中で特殊な能力が目覚め、死なないどころか彼の身体は宙を舞うのだった。一方、難民キャンプに勤務する医師シュテルンは、医療ミスにより有望なアスリートを死亡させ、遺族から訴えられていた。賠償金と同等額の金を用意するため、恋人の女医ヴェラと共謀し、金を受け取って違法に難民を逃していた。

 ひょんなことからアリアンと出会ったシュテルンは、彼の能力で一儲け出来ると思い、かつて受け持った難病患者たちの元に“奇跡を見せる”との触れ込みで“往診”に出掛ける。父を探すアリアンだが、実はムラッドはテロに荷担していた。電車内で爆発事故が起こり、犯人と思われる男の荷物からアリアンとムラッドのパスポートが発見される。アリアンおよび彼と行動を共にするシュテルンは指名手配され、ラズロや警察は2人を追う。

 有り体に言えばアリアンは天使なのだろう。もっとも、ヴィム・ヴェンダース監督の「ベルリン・天使の詩」(87年)とは違って、誰でもその姿や奇跡は目撃出来る。だが、たとえ天使が降りてきても、この混沌とした世界は変わらない。大仰な“見せ物”ではあっても、結局は周囲の何人かの者の内面に少し影響を与えるだけだ。

 祖国を捨て、命がけで欧州に逃れてきた難民を待ち受ける苦難。しかし、ヨーロッパ自体もカオスの中にある。シュテルンやラズロは、当初は目先のことにしか関心の無い人間だった。カオスを既成事実として割り切り、世の中を上手く渡ることを最優先とする。それがアリアンの出現により、価値観は揺らぐ。

 この映画は、先日観たアキ・カウリスマキ監督の「希望のかなた」と似たテーマと構図を持っている。ただし、(万人に対するアピール度は別にして)剥き出しの現実を捉えているのは、ファンタジー仕立ての本作の方だ。天使が睥睨するこの世界に、果たして救いはあるのか。クローズ・アップを多用した切迫感あふれるカメラワーク、長回しで映し出されるカーチェイス、夕暮れ間近のように煤けたブダペストの町並み、そして見事なアリアンの飛翔シーン等、映像面での興趣は大きい。

 コーネル・ムンドルッツォの演出は息苦しいほど力感が漲っている。メラーブ・ニニッゼやギェルギ・ツセルハルミ、ゾンボル・ヤェーゲル、モーニカ・バルシャイといったキャストは馴染みは無いが、皆好演だ。ジェド・カーゼルによる音楽も、実に効果的である。
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最近購入したCD(その35)。

2018-02-11 06:22:56 | 音楽ネタ
 私は正直言って、EDMという音楽ジャンルは好きではない。いかにも“お手軽”に作られた音という感じで(本当は手間が掛かっていることは承知しているものの)、ライトに過ぎる。つまり、聴き応えがないのだ。しかし、ニューヨークに拠点を置くザ・チェインスモーカーズのデビューアルバム「メモリーズ...ドゥー・ノット・オープン」(2017年発売)を何気なくCDショップで試聴したところ、とても良い印象を受け、思わずディスクを買ってしまった。



 ザ・チェインスモーカーズは、アンドリュー・タガートとアレックス・ポールの2人からなるEDMユニットで、結成は2012年。2016年にリリースした「クローサー」が大ヒットしてグラミー賞候補になっている。彼らの作る楽曲は決して無機的ではなく、実にメロディアスだ。また、70年代に流行った“ソフト・アンド・メロウ”のテイストをも感じさせ、幅広い層にアピール出来る。少なくとも、他のEDMミュージシャンの楽曲のように、ダンス系に振られた(私のようなオッサンにとっては)聴き疲れするような展開にはなっていない。

 収録されたナンバーの半数以上が他のシンガーとのデュエット・ソングになっており、しかもすべて相手が違う。だからアルバム全体がヴァリエーションに富み、単調にならない。特にコールドプレイとのコラボ作「サムシング・ジャスト・ライク・ディス」は気に入った。日本盤には「クローサー」を含む3つのヒット曲がボーナストラックとして入っており、お買い得感は高いと言えよう。

 イタリア生まれのジャズ・ピアニスト、ロベルト・オルサーのディスクは以前ピアノトリオ作の「ステッピン・アウト」を紹介したが、このトリオにトランペットとフリューゲルホーンを担当するファルビオ・シガルタが加わったカルテットによるアルバム「フローティン・イン」も、かなり中身の濃い作品だ(2016年録音)。



 大半がオルサーとベーシストのユーリ・ゴロウベフによるオリジナル曲だが、いずれもメランコリックで美しい旋律を有している。テンポの違いはあるが、どれも哀愁に満ちた仄暗い情熱を感じさせて、聴いていて気持ちが良い。各プレーヤーのパフォーマンスも流麗で淀みがなく、デリケートかつアグレッシヴに仕上がっている。唯一の既成曲であるリッチー・バイラーク作の「エルム」も、しみじみと聴かせる。

 録音は「ステッピン・アウト」ほどではないが、高水準だ。人工的な音場ながら、各楽器の輪郭はしっかりと捉えられていて、オーディオ的快感は十分に得られる。なお、オルサーによるユニットは澤野工房からリリースされているものもあるが、こちらは大したことは無い(特に曲調が凡庸)。やはりレーベルとミュージシャンとの相性というものがあるのだろう。

 スメタナの弦楽四重奏曲第一番「わが生涯より」は有名なナンバーではあるのだが、今までディスクを購入したことが無かった。何度か買おうと思ったことはあった。しかしタイミングが悪かったのか、いずれもショップに適当なものが置いておらず、そのたびに諦めていたのだが、今回スメタナ四重奏団による代表的なヴァージョンが廉価盤として再発され、ようやく手にすることが出来た。



 この曲は作曲者自身の、文字通り“わが生涯”を綴ったような重量感のある内容で、技巧的にも難しいとされている。だがスメタナ四重奏団は軽々と弾きこなしており、かつ鮮烈で情感豊かだ。メロディラインは伸び伸びと歌われており、さすがこのナンバーの決定版と言われるだけのことはある。カップリングされている第二番も優れた演奏だ。

 吹き込まれたのは76年だが、デジタル録音の嚆矢とも言える内容で、音質は良い。なお、今回購入したのはUHQCD(アルティメット・ハイ・クォリティCD)仕様によるものだ。実は、数年前に同内容でBlu-spec CD仕様のディスクも発売されたらしい。そっちの方は聴いたことが無いのだが、明らかに音が違うらしく、UHQCD版が上質だという評もある。やはりディスクの仕様が異なると音も変わってくるというのは、当然考えられることなのだろう。
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